武漢近況その14 (2010年4月)


中国のバス事情

 今年の春は暖かくなったかと思うと、すぐ冷たい雨が降り、なかなか春らしいポカポカ陽気が続きません。学生達に言わせると数年ぶりの冷たい春のようです。それでも春はしっかりと通り過ぎてゆきます。桜は東京より23週間ほど早く満開になり、散りました。大学の南湖畔では柳絮(りゅうじょ)が風に乗って漂い、通りの生け垣ではツツジが咲き始めました。雨の合間を縫って武漢のあちこちを散策しています。

先日の清明節(45日)には世界遺産のある鐘祥市(しょうしょう)へ出かけました。武漢から長距離バスで出かけましたが、まずはそのバスについて書きたいと思います。日本のように私鉄や地下鉄網が発達していない中国の市街地では庶民の足はバスになります。幹線道路では路線バスが何台も行き交い、主要な停留所では十数もの路線バスが発着します。バスが立て込むと目当てのバスは遙か向こうに止まり、お客はそれへ向かって殺到します。これでは並んで待つことはできません。料金は市内を走る普通のバスで1元、空調バスで2元となります。日本に比べるとはるかに割安で、長い路線では12時間乗ってもこの値段です。市内バスはすべてがワンマンカーで、乗車時に現金かバスカードで払います。小銭を切らした乗客は料金箱の側に陣取り、他の乗客からお釣りの分だけ料金を受け取ります。降車時は原則停留所ごとに必ず止まるので、目的の停留所が近づいたら事前に降車口へ近づき、止まったらすばやく降りていきます。車内が混んでいたり、奥の方に座ってのんびりしていると、時々乗客が降りないうちにバスは走り始めます。市外へ出るバスは車掌が乗っており、目的地によって料金が異なりますが、せいぜい5元以内でしょう。

長距離バスは市内の各所にある長距離バスターミナルから発着します。鉄道以上に細かな路線網ができており、武漢から北京や上海、広州などへ行く寝台バスもあります。私は近郊への観光によくこのバスを利用します。鉄道より2割ほど割高ですが、主要都市へは何本も出ており、当日行ってもまず乗車券が買えないことがありません。確かめたわけではありませんが、大都市へ行くバスほど大型できれいなバスが多く、地方都市へ行くほどバスが小さく、汚くなる気がします。先日、鐘祥へ行く中型バスに乗りました。バスはターミナルの管理者によって乗車券と乗客の人数を厳しくチェックされてから、出発します。ところが、ターミナルを出て数分も走ると、ある幹線道路の脇で止まり、車掌が新たな乗客を呼び込みます。武昌を出るまで23カ所でこうしてお客を呼び込み、ターミナルを出る時すいていたバスもいつの間にか満席となりました。バスは鐘祥まで直通なはずですが、途中から乗った乗客達は鐘祥の近隣の好きなところで降りていきます。運転手や車掌の小遣い稼ぎなのでしょうが、目的地まで切符を買ったこちらとしては頻繁なバスの停車で余分な時間がかかり、あまりおもしろくはありません。

また、バスに乗っていて驚かされるのは、お客を乗せたバスがかまわず給油所によってガソリンを入れることです。長距離バスではまあ仕方がないかもしれませんが、市内バスでも何回かこうした体験をしました。乗客達は皆おとなしく待っていますが、あともう少しで終点という所でこれをやられると客を降ろしてから入れろと怒鳴りたくなります。

 

世界遺産の明顕陵(みんけんりょう)

 前述しましたが、清明節の連休を利用して湖北省鐘祥市にある世界遺産の明顕陵を見物に出かけました。鐘祥市は武漢から西へ250km離れた地方都市で、ここに明の皇帝陵があります。直通バスで34時間と踏んだのですが、清明節で道路が混んでいたためか、朝の8時に出たバスが鐘祥に着いたのは午後3時でした。慌ててバスターミナルからタクシーで明顕陵へ向かいました。明の皇帝は17代で、初代の陵墓は南京にある明孝陵、後はほとんど明十三陵として北京にあります。なぜ南京や北京から遠い湖北省にと疑問でしたが、現地でその謎が解けました。11代の正徳帝には子が無く、従兄弟の嘉靖帝が12代皇帝に即位。嘉靖帝は周囲の反対を押し切ってもう亡くなっていた自分の父親に無理矢理皇帝の諡号を贈ったようです。そのため、鐘祥にあった父親の陵墓を皇帝の陵墓として大改築を行い、1559年に完成させたそうです。

 鐘祥は落ち着いた小都市で、明顕陵は莫愁湖市民公園のすぐ先の田園地帯にありました。陵墓は初代洪武帝の明孝陵と同じ様式ですが、大きさはやや小ぶりです。しかし、ほぼ当時のままの形で保存されていました。陵墓を囲む外壁は周囲3.5kmだそうで、入り口の赤い新紅門、旧紅門を潜ると長い参道が続き、次の御碑楼を潜ると、望柱と12対の石像が並ぶ神道がまっすぐ伸びています。そして、その先の顋星門(さいせいもん)を潜ってやっと陵墓の直前に建つ明楼とその後ろの墳丘が見えてきました。陵墓は円墳で、珍しいことに、後に皇太后も追葬されたため、二つの円墳がラクダの瘤のように連なっていました。

 この日は清明節の連休でしたが観光客も少なく、久しぶりによく晴れた穏やかな日でした。陵墓の周りの田園にはちょうど菜の花が盛りで、辺り一面黄色い絨毯を敷いたように咲き誇っていました。周囲を散策したかったのですが、日帰りの予定で来たため、陵墓の観光を終えるとそのままバスターミナルにもどりました。武昌に戻るには午後6時のバスが最終だったため、鐘祥滞在3時間という慌ただしさでした。鐘祥市は遠かったです。

 

論文が書けない学生達

 今学期も3年生の作文を担当しています。彼等は4年生になると卒論を書かなければならないので、今学期の作文は論文演習をテーマに始めました。まず、これまで主に敬体(です・ます体)で書かせてきた作文を常体(だ・である体)で書くように改めました。次に、簡単に論文の説明や書き方を説明し、模擬論文を書かせることにしました。いきなり書かせると混乱するので、まず、論文の構造を書かせました。論文の目次と各章の短い概要を書かせて提出させ、問題が無ければ論文の執筆を許します。ところが、この構造が書けません。模擬論文とは言っても、卒論、即ち学位論文の演習ですから、問題提起、論証、結論といった形式を踏んで欲しいのですが、出てきた構造は、問題提起が曖昧、論証が無い、結論が無いと形になりません。そもそも説明文や感想文、主張や提言を開示する政治論文との区別を理解させるのに一苦労しました。3月末に始めてほぼ1ヶ月、構造完了者はまだ各クラス3分の1程度です。学生達に、言語の違いはあっても学術論文は日本でも中国でも同じである、分からなければ中国語で論文を書くことを想定しろと言ったところ、すかさず、今まで論文を書いたことがないという返事が返りました。高校、大学を通じて論文の経験が無いのです。大学入試には作文がありますが、ここでは、賢人や偉人の主張、学んだスローガンを如何にうまく結論に結びつけるかが鍵だそうです。

 毎年、卒論の指導をしていて思うのですが、論文を書いたことが無い学生がいきなり日本語で論文を書くのは並大抵のことではないでしょう。論文演習では、例え書けなくても論文が何となく分かってもらえれば良しとしようと思っています。

 

青海地震

 414日に青海省玉樹チベット族自治州でM7.1の地震がありました。現在まで、死者は2千人以上、負傷者は1万人以上に及んでいるようです。武漢では地震を感じることも無く、影響は何もありませんでした。幸い、青海省出身の学生もおりません。四川大地震の時のように、大学が募金活動やボランティアで沸き返るということもなく、平静です。救援は困難を極めているようですが、21日は地震の犠牲者の追悼日とされました。驚いたことに、朝から何十チャンネルもあるテレビが全て中央テレビ局の追悼番組を流していました。学生から聞きましたが、この日、カラオケ屋は休業で、インターネットは全て白黒画面になったようです。いつもこうした徹底ぶりには驚かされます。