武漢近況その13 (2010年3月)


一人で過ごした春節

 今回は諸事情で、だいぶ早めに武漢へ戻ることになりました。上海までの航空券を問い合わせると、ちょうど春節の元旦(初一)にあたる214日に空席が多いので、その日にしました。上海の空港で武漢行の切符を求めましたが、これも480元ですんなり手に入り、武漢に18時頃着きました。空港からタクシーで宿舎へ向かいましたが、途中の道路はガラガラで、周りは暗くて、寂しげです。宿舎の周りはいつもならスナックや軽食の屋台でひしめいているのですが、さすがに屋台は1軒もなく、人通りもありませんでした。幸いこの日は、近くのビジネス・ホテルで夕食にありつけました。

 翌朝、天気もぐずついていたせいか、街全体が眠っているようです。アパートやマンションの前や通りには、大晦日の爆竹のカスがそのままで、遠くから見ると赤い敷物を敷いたようです。さすがに、繁華街の百貨店、大手スーパー、大型レストランなどは営業していました。そのため、食事の都度30分ほど歩いて光谷広場へ通いました。レストランに入ると、いつもの分厚いメニューではなく、紙1枚の春節メニューを渡されます。見ると、料理の種類は限られ、値段も随分高めでした。噂によると春節の従業員手当は通常の3倍だそうで、まあ仕方がないのでしょう。

 初四あたりになると、心なしか人通りが増えてきました。一部の商店が店を開き、あるいは、道端で、年賀用品を積み上げて売っています。果物の籠盛り、酒やお茶、お菓子の箱詰めなどが並びます。なんだかちょっと前の日本を思い出します。

 まだ道路がすいているので、バスを乗りまわして、武漢のあちこちを見て回りました。東湖の梅園では梅祭りと垂れ幕がありましたが、まだ3分咲き程度であまり咲いていませんでした。東の郊外に石門峰名人公園というのがあったので、行ってみると大きな墓地公園でした。春節のせいか、けっこう墓参りの人出があり、あちこちの墓前から爆竹の音が響いていました。

 行きつけのレストランが開き始めたのが、ちょうど初八、1週間目あたりからで、ようやく普通の生活ができるようになりました。それでも、まだ大学は校門の一部が開いているだけで、学生食堂は1件だけが時間限定で営業し、売店は閉まったままでした。春節に帰らなかった学生達がわずかに居る程度で、静まり返っています。結局、学生達でにぎわうようになったのは2週間後の元宵節を過ぎてからになりました。武漢は学生の街と言われます。特に、武昌に大学が多いので、学生達の居ない春節はこれが中国かと思うほど静かでした。

 

高速新幹線に乗る

 2学期の始まりまでずいぶんと間があったので、隣の湖南省の長沙へ観光に出かけることにしました。インターネットで列車の時間を調べると、高速新幹線が開業していることが分かりました。昨年の暮に開業したばかりで、武漢と広州をおよそ3時間半で結びます。既に在来線を走る新幹線(動車)はオリンピック前から稼働していましたが、在来線とは別に、新たな路線を敷設した高速新幹線が一部の地域で運行を始めました。これまで武漢では、それぞれ武昌、漢口、漢陽の各駅に分かれ、武漢という駅はありませんでしたが、武昌の東に大きな武漢駅が作られ、30分に1本の頻度で運行されています。さっそくこれに乗って長沙へ行くことに決めました。当日路線バスで駅に行きましたが、周りは田園地帯の新開地で、まだ、レストランやスーパー、ホテルなど何もなく、大きな駅が建っているだけでした。

武漢から長沙まで360kmを最高時速350kmで、およそ1時間半で走りました。従来の特急は3時間半ですので、所要時間は三分の一。ただ、特急運賃が54元に対して、こちらは175元と3倍以上でした。飛行機並みです。春節期間中だったせいか、高額にもかかわらず満席でした。到着した長沙南駅(在来線の長沙駅があるため)も周りには何も無く、そうそうに路線バスで市内へ向かいました。

 

長沙と韶山を観光

 長沙は湖南省の省都で、人口およそ560万人、市のほぼ中央を湘江が流れます。在来線の長沙駅から西へ延びる五一大道にそって繁華街が続き、最近の中国の大都市らしく、高層ビルが林立し、道路は車で溢れていました。

 ホテルの近くで昼食をとった後、すぐに馬王堆漢墓へ向かいました。1972年、市の北側の病院建設地から紀元前2世紀の前漢時代の墳墓が未盗掘で見つかり、中からほとんど完璧に保存された女性の遺体が発掘され、一躍有名になりました。現在、古墳は病院の敷地内にあり、一部の古墳が見学できます。ただ、大きな穴があるだけで、出土品は全て湖南省博物館に陳列されています。

 さっそく博物館へ向かいました。博物館はこれも市の北側の広大な烈士公園の隣にあり、最近建て直された大きな建物で、入場無料でした。陳列品は馬王堆の出土品が中心でした。博物館の中央に長沙国丞相李蒼夫人の辛追の遺体(ミイラとは言わない)が陳列されていました。肌はさすがに褐色ですが、肢体は干からびたようには見えず、髪の毛が黒々しているのに驚かされました。享年50歳、病で亡くなったとのことですが、他のコーナーに夫人の30歳ごろの復元像があり、それを見るとなかなかの美人でした。

 翌日は、毛沢東の生家がある韶山へ出かけました。長沙西バスターミナルから直通バスで100km強、料金は保険込みで31元でした。バスは長沙市を出て、緑の田園地帯をひたすら走って、1時間半で韶山バスターミナルに着きました。そこから生家まで専用バスで行きました。韶山は里山に囲まれた自然が豊かな田園地帯でした。生家はその里山の一角にあり、生家の前は溜池が水をたたえ、当時の様子がそのまま残されているようでした。平屋の家は、居間や家族の寝室、農作業の部屋や倉庫など、部屋数の多い大きな家でした。中農か、小地主といった家構えです。生家の周りは水田で、その近くにさらに何件か農家がありましたが、観光客を当て込んだレストランを兼業していました。生家の里山を回りこんで奥に行くと、整備された毛沢東広場があり、その周りに、毛氏宗祠、毛沢東記念館、遺物館、図書館などがならんでいました。毛家の先祖を祀った宗祠(宗廟)はなかなか大きな建物で、毛家はこの辺りでは由緒ある家柄だったのでしょう。まだ春節の期間だったせいか観光客の数も程々で、ゆっくり楽しめました。これらの施設は教育施設なので、入場は全て無料でした。韶山の印象は日本を思わせる緑豊かな里山の農村でした。もっと荒れ果てた厳しい自然を想像していましたが、革命家の故郷というにはあまりにのどかだったのが意外でした。

 最終日は、長沙の中心に近い、太平天国の乱で激戦区となった城郭の天心閣、また、湘江を渡って、湖南大学の構内にある10世紀宋の時代に作られた岳麓書院を見て回りました。岳麓書院は昔の大学で、朱子学を構築した朱熹がここで講義をしたそうです。

 高速新幹線のおかげで、今回は思いの外ゆったりと観光ができました。最近の中国の都市はどこでも同じような外見になってきましたが、それでも、それぞれの歴史や特徴があり、興味が尽きません。

 

2学期がはじまる

 33日から2学期が始まりました。今期は2年生の会話、3年生の作文(2クラス)と卒論指導だけで、先学期に比べると随分楽になりました。2年生は今までほとんど担当したことがないので名前と顔を覚えるのに苦労しそうです。3年生の作文は、論文演習を中心にしようと考えています。卒論ですが、計画では初稿の提出が228日だったので、確認のメールを出すと、期日に提出したのが2名、進捗を回答したものが4名、未だに応答の無いのが3名でした。まあ、就活や企業実習で忙しいのでしょう。4年生はそろそろ企業実習が始まるころです。時々、構内で顔を合わせる学生達と話すと、今年は昨年に比べはるかに就職状況が好転しています。ただ、大学院受験組が苦戦しているようで心配です。

 今年は春節が遅かったので、たっぷりと休めました。ここ2週間冷え込んで、ぐずついた天気でしたが、ようやく晴れ間も見えるようになりました。また今学期も楽しみながら授業を進めていきたいと思います。