期末試験に疲れる 今年は梅雨が早いのか、5月を過ぎても雨模様の涼しい日が続きます。学生達も、武漢は5月を過ぎるとすぐ夏なのに今年は涼しいといぶかっていました。それでも、最終授業を終えた6月の半ばを過ぎてから36℃を超える猛暑となりました。朝夕も気温が落ちず、寝苦しい夜が続きました。 6月の3週目から期末試験を行いました。例によって、外籍教師(外教)は正規の試験日より早めに試験を行って、夏季休暇に入れます。その代わり、試験の実施や監督は全て一人で行います。今期の科目は、2年生の会話、3年生の日本語教育学、作文でした。途中から、1年生の会話を新任の若い日本人先生へ渡し、産休の中国人の先生の教育学を引き受けました。会話は、あえて口答と筆記の2種類の試験を行いました。口答は、5分間スピーチをやらせました。2クラス65人ですから、2日間、5時間かけて行いました。 3年生の作文では、来学期の卒論演習を兼ねて、日本文学、日本文化に関する論文を提出させました。夏は日本へ戻るので期日に出さないと評価しないという脅しがきいたせいか、全員が期日の19日までに提出してきました。それからが大変でした。65編の小論文を丸々4日間宿舎にこもって、読んで、評価し、コメントを書きました。自分で考えて書いたもの、切り貼りで形を整えたもの、果てはどこかの論文を丸写ししたものといろいろでした。作文の授業で、論文には結論が必須であり、問題提起、論証、結論と論文の体裁をやかましくいったのですが、やはり、満足な結論が無い論文が多く出てきました。確かに、学生にとって小論文とはいえ、特定のテーマで自分なりの結論を書くのは難しいことでしょう。結局、調べたテーマの説明や解説文で終わってしまうようです。 評価の基準を甘くしたのですが、それでもAの評価を付けた論文は3編しかありませんでした。江戸時代の陽明学の興隆の原因を探ったもの、現代敬語の特徴から日本の社会構造を分析したもの、宮崎駿のアニメの特徴を生命の躍動と看破したものの3篇でした。 今学期はよく学生の論文を読まされました。卒論の指導に始まり、作文の授業では、中間試験も論文を書かせました。卒論はともかくとして、作文の論文では必ずコメントを書きました。ABCの評価だけでは、書いた論文の良し悪しが分からないと思ったからです。出来栄えはともかく、自分で考えて書いた論文には良い評価を与えました。他人の論文の継ぎ接ぎは仕方がないとして、残念なことに、丸写しも何篇かありました。こうした学生には、来期の卒論はどうするのだろうと少々心配になります。 期末試験の前に、帰省の航空券を手配してもらいました。日にちが限られたため、期末の採点には根を詰めました。生憎、気温が高く、エアコンの調子が今一つだったため、汗だくの作業でした。2月にめまいを起こしたため体調が気がかりでしたが、幸い無事に終わりました。それでも、成績の入力や、試験や学科のレポートの提出が終わったのが、武漢を離れる前日となり、少々疲れました。 武漢での1年 武漢に赴任して、ちょうど1年が過ぎました。中国の大学は2学期制ですので、前期、後期を過ごすと周りの様子がよく分かります。武漢は思ったより大きな都市でした。人口も800万と南京より大きいのですが、何よりも、武昌、漢江、漢陽と三つの都市に分かれているのが、良くも悪くも特徴となっています。地下鉄は現在工事中ですので、これらの都市への行き来は全てバスかタクシーになります。道路やバスはいつも混んでいて、大学から武昌の繁華街へ出るのに3,40分、商品の豊富な漢江の繁華街へは1時間以上かかります。日系の会社や工場が多い漢陽へは適度なバス便が無いので、結局、出かけませんでした。道路の幅や区画が広く、ちょっとそこまで歩くのにも結構な距離になるので、アメリカのように自家用車がないと不便です。 武漢は学園都市といわれます。特に、武昌が政治と学術の中心で、北側に武漢大学、華中科技大学、華中師範大学などがあり、南側には、中南民族大学の他に、中南財経政法大学、華中農業大学などや、さらに、民族大学のすぐ向かいにある武漢科技学院などの短大系の学院を加えると20や30を超えるでしょう。そして、これらの大学や学院は全て広大なキャンパスを持っており、中規模と言われる民族大学でおよそ90万u、一番広い武漢大学で360万uですから、日本の大学と比べるとうらやましい限りです。学生達に言わせると、夏休みには武漢の人口が100万人減るそうです。民族大学でも学生、教職員合わせて2万人ですから、あながち誇大表現ではないかもしれません。 南京の時と違って、宿舎は学生の居るキャンパスのすぐ隣ですから、よく学生達と付き合いました。学生達の寮は大学の南端、私の宿舎は北端で、およそ2kmほど離れています。大学の食堂も南にあるため、よく運動を兼ねて歩きました。なるべく全員と接したいのですが、次第に、よく来る学生となんとなく敬遠する学生に分かれてきます。よく来る学生は積極的で、放っておいても日本語がどんどん上達するでしょうから、本当は敬遠する学生達ともっと付き合いたいのですが、なかなかうまくいきません。男子学生ならいっしょに酒を飲むという手もありますが、女子学生はどうしたものか思案中です。ともあれ、中国の各地から来た多民族の若い学生達といつも接触できるのは教師の楽しさと言えるでしょう。 桂林、陽朔を行く ぎりぎりに成績と期末報告を提出して、26日に武漢を離れました。今学期は割合に忙しかったため事前に十分旅行計画が立てられず、近場の桂林へ行くことにしました。武漢から見ると、隣の湖南省を南へ下ると広西省(広西チアン族自治区)になり、桂林はその北側です。武漢から桂林まで飛行機で1時間程でした。 桂林は奇峰に囲まれた盆地のような街でした。街は平坦で、有名な奇岩や奇峰は遠方に点在し、街の中央を漓江(りこう)が流れます。漓江に注ぎ込む支流が小さな湖を作り、そのまわりに多くの観光ホテルが建てられていました。静かな地方都市といった印象で、街の主だったところは1時間も歩けば十分に見て回ることができました。武漢とは大きな違いです。初日はまず街の中央にある明代の王城跡へ行きました。城壁に囲まれた王城跡は、現在では広西師範大学のキャンパスとなっており、その奥に独秀峰という奇岩がそびえています。頂上へは急な石段ができており、上に登ると桂林の市内がよく見えました。王城を出て東へ歩くと漓江に突き当たり、そこから川沿いの並木道をゆっくりと下って、これも市内観光で有名な象鼻山まで歩きました。武漢より随分南にあるせいか、日差しが強く、時折、さっと通り雨が駆け抜けました。 2日目は、観光のハイライト、漓江下りに出かけました。前日に予約しておくと、8時過ぎにバスがホテルへ迎えに来ます。出発点の竹江埠頭は桂林から20kmも下ったところにありました。川岸に簡単な桟橋が十ほどあり、そこに箱型の遊覧船がたくさんつながっています。料金はバスの送迎が35元、遊覧船代が昼食つきで210元でした。船の中はテーブルのついた8人がけのボックス席が2列に並び、全て指定席になります。 次々に送迎バスが到着し、多くの観光客が指定された船に乗っていきます。ほどなく、順に遊覧船が岸を離れて行きました。出発すると、すぐに簡単な説明があり、それが終わると昼食の注文取りが始まりました。昼食料金は船代に含まれていますが、名物の川魚料理など特別料理の追加注文でした。こちらは一人でしたので追加料理は断りました。 船は流れに沿って下っていきます。川は雨が多かったせいか、水嵩が増しているようで、そこそこの速さで流れています。出発してからほどなく奇岩や奇峰が見え始めたので、1階の席を離れて、2階の甲板の一番前で景観を楽しみました。時折、スピーカーから解説が流れますがよく聞き取れません。主な奇峰には名前があるのでしょうが、パンフレットを見てもよく分かりませんでした。船は様々な奇岩、奇峰の中をゆったりと進みます。墨絵の山水の世界を想像していましたが、船から見る景色は川の両側に奇峰の山々が連なり、川幅も広く、雄大な自然景観という印象でした。船は昼食が終わって間もなく、終点の陽朔に着きました。およそ60km、4時間の川下りでした。今回は、旅行ガイドに従って、すぐに桂林へ戻らず、陽朔で1泊することにしました。 陽朔は奇岩、奇峰の間に造られた小さな町ですが、なぜか西欧の旅行者に有名で、リュックを担いだ多くの西洋人が歩いています。町はそれを当て込んだやや洋風の旅館が多く、また、中心にある西街という通りには、道へテラスを張り出したレストランが軒を並べています。繁華街を抜けて、陽朔公園の入り口に見つけた小奇麗な旅館に1泊200元で泊まりました。その日の夜は西街のレストランで地元料理を食べました。?酒魚(野菜と魚の炒めもの)、田螺(タニシの炒めもの)、米粉(うどん)などが名物です。 翌日、午前中は雨でしたので、サイクリングを止めて、町の小さな乗り合いバスで町の中や周りをめぐりました。奇峰の山々が入り組んだせいか、山間を抜けると思わぬ景観に恵まれて、楽しめました。漓江沿いのレストランで昼食を済ませてから、直行バスで桂林へ戻りました。バスは15元で、1時間ほどで着きました。 桂林では初日に泊まったホテルにまた泊まり、翌日は路線バスで、桂林の郊外へ出かけ、ところどころに奇峰が連なる田園風景を楽しみました。桂林は清潔で小さな都市でした。駅前の中山路こそ渋滞で車がつらなりますが、他は人や車であふれかえるところが無く、道路の幅も適度で、歩くのにほどよい広さです。汗まみれであちこち歩き回りましたが、それでものんびりと落ち着くことができました。
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