武漢も冬に入りました。このところ日中はよく晴れて、日射しに当たると気持ちがよいのですが、夜になると冷え込みます。天気予報では、3〜10℃とありましたので、東京より少し寒いかもしれません。 この秋に起こった金融危機の影響が武漢にも広がってきました。中国の大学では今が就職シーズンです。4年生達は企業の就職説明会や入社試験などに出かけて忙しくしているようですが、求人状況はあまり思わしくないようです。4年生の男子とは今月も杯を酌み交わしましたが、幸い、暗く落ち込んだ様子がないのが救いでした。もっとも、就職戦線はまだ前半で、また、最近では大学生が増えたことから、日本語科の学生といえどもそう簡単には決まらないので、気長に構えているためかもしれません。昨年も、南工大の男子学生が卒業間近まで決まらず、やきもきしていたのを思い出します。当事者よりも下級生の方が心配しており、3年生の作文に、来年の自分達の就職時期までこの不況が影響するのではと不安を書いてくる学生が何人かおりました。中国政府も早々に内需拡大を目指した大規模な減税や財政投資を発表しています。世界銀行の発表では、2009年の中国GDP成長率は7.5%の見込みだそうで、うらやましい限りです。中国や日本が金融危機解決の主導権を発揮してほしいものです。 話は戻りますが、11月始めの週末、大学の国際合作交流所の招待で、外国人教師の三峡ダム・ツアーに参加ました。交流所のスタッフ、英語の外国人教師、アメリカ、オーストラリア、メキシコ、南アフリカと多彩ですが、それに日本語の私と総勢12名で、大学のマイクロバスで出かけました。三峡ダムは武漢からおよそ350km離れた宜昌市(ぎしょう)にあります。大学を南に下り、白沙洲長江大橋(第三橋)を渡り、漢陽へ出て、そこから、漢宜高速に乗って西へ向かいます。先月出かけた荊州と同じ道筋ですが、宜昌は荊州よりさらに100kmほど先になります。宜昌まで4時間半かかりました。市内で昼食をとって、それから1時間ほど長江をさかのぼって、三峡ダムに着きました。 観光用ゲートでダムの専用バスに乗り換え、展望台まで上りました。展望台からダムを見ると、やや遠方にコンクリートの堤防が長く続き、その右側にダム湖が水を湛えて広がっていました。展望台からダムまでやや距離があるのと、また、ダムを中心に右側にダム湖、左側にダムから流れた長江が続き、広々とした展望のためか、堤防の巨大さはよく分りませんでした。それでも、解説を読むと、堤防部分の全長が約2km、水門の部分が500m、高さが185mとありますから、巨大なコンクリートの壁に違いありません。展望台の後ろには、長江を行き来する船舶のために5段の閘門式水門を備えた水路がありました。 三峡ダムは、1993年に工事が開始され、現在は第三期目にあたり、来年の2009年に完成予定だそうです。三峡ダムの水力発電所はもちろん世界最大の規模で、年間発生電力量は約850億kWh、中国の消費電力量の1割弱を賄えます。ダム建設の目的は、電力供給の他に、10年に1度ほど起こる長江の大洪水を防ぐためだそうです。 重慶から山間の渓谷を流れてきた長江は、ちょうどこの宜昌市で様相を一変さて、川幅を広げ、広大な平野をゆったりと武漢、南京、上海へと流れていきます。遅ればせながら、今回のツアーで初めて三峡の意味が分りました。重慶の白帝城から宜昌までの約200kmの間に、瞿塘峡(くとうきょう)、巫峡(ふきょう)、西陵峡、という3つの景勝地があり、これを三峡というのだそうです。ダムの影響で、重慶の市街地から宜昌までのおよそ600kmの川筋の水位があがり、三峡沿いの名所旧跡の中には水没するものもあるため、主なものは高所へ移して再構築していました。そう言えば、展望台から眺めたダム湖の対岸には、いくつかの高層ビルを含んだ大きな都市が望めました。水没した市町村が移転した新興市街なのかもしれません。 話は変わります。先日、学生の作文を添削していたら、ある学生の作文に、将来日本へ行って自分の民族について講演をしたいという一文が見つかりました。名簿を見ると、その学生は雲南省麗江市出身の摩梭人(もそ)とありました。興味を持ったので、さっそく学生を呼び出して、食事をしながら話を聞いてみました。 彼女は雲南観光で有名な麗江市からさらに北へ300kmほど奥に入った濾沽湖(ろここ)の出身です。この辺りは海抜2700mの高原で、周囲25kmの濾沽湖の周辺には3〜4万人の摩梭人が暮らしているようです。摩梭人は、現代の中国では民族として認められず、トンパ文字で有名な麗江の納西族(なし)の一部とされています。彼女に言わせると、言語は似ているが生活形態は全然違うとのことで、自分達を納西族と言わずに、摩梭人と言っているようです。摩梭人は母系社会で、妻問い婚や歌垣が現代でも行われていることで有名です。日本の民族研究者も結構入り込んで、本に書かれ、テレビでも放映されたことがあるそうです。 摩梭人は女性を家長とした大家族で生活していて、一家の娘が年頃になると個室を与えられ、夜そこに男性が通ってきます。これを「走婚」というようです。通っている段階ではあまり大っぴらにされませんが、子供が生まれると初めて村中に披露されるようです。しかし、それでも男性は女性の家へは一緒に住まず、相変わらず通うようです。子供は女性の大家族の中で育てられ、父親代わりではないのでしょうが、伯父さん/叔父さんが民族のしきたりやルールなど社会教育を担うようです。家長は長子相続ではなく、家産の管理がうまい女性が家長となります。男性はお金を稼ぐのはうまいが、管理は下手で任せられないと言われています。現在の摩梭人の主な収入は農業と観光で、大きな大家族の家の一部を民宿にして収入としているようです。彼女の叔父や叔母など家族の構成員が稼ぐ収入は家族の収入として、家長が一括して管理します。因みに、彼女に大学の学費は誰が出すのかと聞いたところ、お父さんではなく、お母さんだと言っていました。 濾沽湖の村落に暮らしている摩梭人は現代でも、こうした生活形態を維持していて、それがまた最近では中国でも有名になり、多くの観光客が訪れるようです。しかし、麗江や昆明、あるいは、他の都市で生活する摩梭人は夫婦が一緒に住む普通の結婚形態をとっています。彼女に、大学を卒業したらどうするのかたずねたところ、村には大卒者の仕事が無いので、都会で働くとのことでしたが、本音を言うと、都会での核家族より、村での大家族の生活の方が楽しいと言っていました。 中国には漢族を含め56民族がいるそうですが、少数民族の中にはまだこうした独特の生活形態や民俗風習を持った人達が生活しており、自分の教え子の中にもそうした学生がいると思うと、つくづく中国の広さ、多様さを考えさせられました。 来週から12月に入ります。早いもので、暑い夏の武漢に来たと思ったら、もう今年も最後の月になりました。例によって、期末試験の準備に入らなければなりません。基本的には、どこの大学も試験は同じですが、問題や答案の形式、配点など細かな部分で違います。こちらに移ってから初めての期末ですので、少しは余裕を持って始めたいと思います。 師走に入ると、なにやかやでお忙しいことと思いますが、どうぞお身体ご自愛ください。
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