武漢近況その2 (2008年10月)


 秋もだいぶ深まりました。学生に言わせると、武漢には春と秋が無いといいます。もっとも、これは南京でもそう言われました。中国の火炉(かまど)と言われる武漢や南京は、夏の暑さが長く続き、涼しくなったと思ったらすぐに冬がくるそうです。先週まで日中は25℃を超える暖かさでしたが、週末に雨となり、セーターが必要なほどになりました。これからぐんぐんと冷え込んでくるのでしょうか。

 武漢のある湖北省は、春秋戦国の時代には楚と言われました。楚は長江の中流域を拠点として、現在の湖北省、湖南省を合わせた広大な版図を持っていました。都は郢(えい)といい、現在の荊州市の近くにあったようです。蘇州の城郭を造った伍子胥は楚の名門の生まれでしたが、内紛で父と兄を殺され、呉(蘇州)へ逃れます。呉王の闔閭(こうりょ)に仕え、呉を強大にして、楚を攻めてこれを滅ぼします。伍子胥は父と兄の仇、楚の平王の墓をあばき、「死屍に鞭打つ」という故事で有名です。もっとも、先日湖北省博物館へ行って分ったのですが、この時代の王侯の墳墓はとても巨大で、地層の奥深くに埋葬されています。「墓をあばく」にはちょっとした土木工事が必要だったのではと、改めてその執念に感心しました。古来、楚の人は激情的で、また執念深く、多くの革命家を輩出したといわれます。因みに、毛沢東は湖南省の生まれです。

 武漢そのものも古くから東西の交通の要であり、物資の流通の中心として栄えたようですが、現代の中国では、なんといっても辛亥革命の発端となった武昌起義で有名です。起義、または、首義とは最初に義兵を起こすといった意味ですが、広州などで何度も失敗してきた反清朝の革命勢力が19111010日、初めて武昌で勝利を収めました。翌々日には漢口、漢陽も革命軍の手に落ちます。これをきっかけに、湖南省、陝西省、江西省など中国全土へ革命の波が広がりました。現在、黄鶴楼が建つ蛇山の南側の麓が辛亥革命軍政府旧跡として公園になっており、孫文の銅像を前に辛亥革命博物館があります。

 さて、10月の初め、国慶節の連休に、学生二人を案内に荊州市へ旅行に行きました。荊州市は武漢から長江を西へ300kmほどさかのぼったところで、先にも書きましたが、楚の都郢があったところです。また、三国時代には、魏、呉、蜀が荊州をめぐって争奪戦を繰り返し、有名な赤壁は荊州市から長江を少し下ったところにあります。もっとも、三国時代の荊州とは、春秋の楚とほぼ同じ、湖北、湖南を含む広大な地域をいうようで、そのころの州都は、荊州市から100kmほど北にある襄陽(じょうよう、現在の襄樊市)にありました。荊州市は蜀の関羽の居城であり、この辺りから湖南を含む西側が蜀の版図で、湖北の東側が呉の版図だったそうです。居城は現在でも荊州古城としてその城壁が残されていますが、さすがに、城壁そのものは明代に建てかえられたものでしょう。場内は関羽一色でした。荊州市の経済の中心は、東の沙市区にあり、古城のある荊州区はややさびれた地方都市といったおもむきでした。城壁を除いては、あまり観光施設も整備されておらず、案内板も多くありません。その中を学生達と3人で、関帝廟、関羽祠から、やれ関羽が凱旋した門、やれ関羽が冑を脱いで休んだところ、やれ関羽の練兵場など、地図を片手に歩き回りました。荊州市出身の学生に案内してもらったのですが、彼女は荊州でも公安県の出身で、古城には来たことがなかったそうです。中国の市は行政単位としては、日本の県ほどの広さがありますから、ちょうど、横浜の学生に、小田原の案内をさせているようなものなのでしょう。それでも、彼女達は懸命に調べたり、周りの人に聞きまわってくれました。「関公刮骨療毒処」という、関羽が傷をおって名医華陀の治療を受けた場所に記念像があるそうで、地図では中央病院の側に載っているのですが、いくら辺りを探しても見当たりません。諦めて帰ろうとしたところ、学生達が聞きまわって見つけました。なんとその場所は中央病院の中庭でした。観光というよりも、地方都市の風情を学生達と楽しんだという旅行になりました。

 話は変わりますが、中南民族大学は大分県の日本文理大学と提携しているようで、毎年夏に、各学年から数名ずつ集めて、ひと月ほど大分で海外研修を行っています。研修からもどってきた学生達から、日本の印象を聞くうちに、ちょっとおもしろいことに気付きました。

 日本の経済が飛ぶ鳥を落とす勢いがあった時、日本の多くの人達が英国に対するイメージをかつての大英帝国や経済大国から、田園国家英国へと変えていきました。英国から帰ってきた日本人達が感心することは、郊外に広がる、あるいは、田舎のきれいで清潔な田園風景でした。また、米国ほど贅沢ではなくとも、そこでゆったり暮らす満ち足りた生活でした。最近、日本から帰ってきた中国の人達の日本のイメージもこんな風に変わってきたように思います。日本文理大学は大分市の郊外にあり、私自身は行ったことはありませんが、きっと緑豊かな田園風景が広がるのではないでしょうか。学生達は、よく手入れをされた自然の美しさ、環境の清潔さ、また、古いものを大切にしている町の景観に何よりも感心して帰ります。町の商店やスーパーでの対応の親切さ、いろいろな施設でのサービスにも感銘を受けるようです。これは、学生達だけでなく、テレビや新聞に載る日本の記事からも時々感じられます。

 中国の人達が感心する日本は、超近代的なビルが林立する日本や、東京−大阪を2時間半で行き来する新幹線の日本ではなく、ちょうどかつて我々が英国に感じたような自然を大切にし、清潔な環境を保とうとする日本の姿にあるようです。超近代という意味では、上海の景観はもう東京や大阪を超えているでしょう。改革開放を駆け足で進んできた中国の人々には、ゴミが落ちていない清潔な街並み、商店での笑顔の対応、ゆったりと列を作って乗り物に乗る人々が何よりも新鮮に映るようです。こうした日本の姿が、これからの中国に役立つのであれば、少し誇らしい気がしてきます。

 武漢での生活も2ヶ月が過ぎしました。ようやく学生達の顔と名前の見分けがつくようになりかけています。学生達とはなるべく食事をしながら話をするようにしていますが、それでも、男子学生はどこも同じで、積極的に買い物や食事に付き合うのは決まって女子学生です。そこで、金曜か土曜の夜に、各クラスの男子学生と夕飯を食べながら酒を飲むことにしました。酒が入ると、口の重い男子学生も結構盛り上がります。ただ、先日少し調子に乗りすぎて、思わぬ失敗をしてしまいました。待ち合わせた学生食堂へ白酒を1本ぶらさげて行ったところ、先方では、ちゃんと2本も白酒を用意して待っていてくれました。飲み過ぎぬよう用心はしていたのですが、気がついてみると、学生に付き添われて何とか宿舎に帰りつくありさまでした。学生達と盛り上がり過ぎたのか、酒への抵抗力が無くなったのか、定かではありませんが、情けない始末です。

 いよいよ11月に入ります。武漢に紅葉の名所があるのか分りませんが、暇を見つけては出歩いてみたいと思います。次第に寒くなるようです。お身体お気を付けください。