今年の蘇州は空梅雨なのか、雨は降らないのですが、毎日とても蒸し暑くて閉口しています。少し外を歩くと汗がにじみ出て手拭いやハンカチがぐっしょりとなります。大学は卒業のシーズンで、構内を歩くと、時計台の前の広い芝生の庭では、西洋式に黒いガウンと角帽を被った学生達がお互いに記念写真を撮り合っています。あのガウンと角帽は一時間10元で借りるのだとのことでした。 さて、蘇州近況も最終回となりました。先月、蘇州での契約が終わり来学期は未定と書きましたが、あれ以来、夢は膨らみ、今度は語学留学生として新疆や雲南の大学でのんびり学習生活をなどと考えました。中国での生活は喧騒やねっとりするような脂っこさに辟易することはありますが、人々はフレンドリーで、顔つきも日本の中にいるようで違和感がありません。また、なによりも為替の影響か、物価が安く暮らしやすいのが魅力です。教師生活も2年間続けるうちにだいぶ慣れて、毎日若い人に囲まれて暮らすのはとても刺激的です。そんな時、南京工業大学を紹介してくださる方があり、6月の始めに南京へ様子を見に行きました。幸い先方からも来て欲しいとのことでしたので、お受けすることにいたしました。その後、蘇州大学からも特別に残って欲しいとの要請がありましたが、気持ちはすっかり蘇州を離れてしまいました。南京には昨年の10月の終わりに観光にでかけました。その時の印象では、上海、蘇州の急速な発展はありませんが、昔の都としての趣を持った、ゆったりとした大都会といった感じでした。上海から4時間近くかかるのは少し不便ですが、この国の別の街で新たな生活が送れるのはなんだかとても楽しそうです。 蘇州に居られるのも残りわずかになりました。このところ、まだ見ていないところや、行っていないところへ出かけようと、自転車で街中をまわっています。そんな折、司馬遼太郎の街道をゆくシリーズの「中国・江南のみち」を読み返してみました。彼は1978年と81年に蘇州へ来ており、その時、私の宿舎の東呉飯店と眼と鼻の先の蘇州飯店、姑蘇飯店に泊まっています。「友誼路の北側の家並みの裏に、運河がながれているのである。石橋はその淀んだ運河をまたいでいる。・・・白い壁の家並みが、運河に沿ってひしめくようにならび、わずかにだいだい色の外灯が夜気を払っているのみで、橋畔に佇んでいると、墨絵の墨のなかにまぎれこんでしまったような感じがした。」と描写した光景は、友誼路は十全街と名前は変わりましたが、通りの裏側には運河が流れ、そのやや西側に小さな眼鏡橋のような石橋がそのまま残っています。彼の好きだった民家や商店の白壁は少しくすんで、また、運河の水はさらに淀んではいますが、そのままの佇まいです。彼は世界遺産の庭園や寒山寺が嫌いなようで、しきりに城門や城壁の跡を見て廻っています。彼の訪れた頃からすでに、蘇州には城壁がほとんど残っておらず、城壁の四辺に造られた城門も、北、東、南側にはありません。唯一西側に、北からしょう*門、金門、そして、胥門や盤門と四つの門が残されています。しょう門と金門は下町風の商店街の中にあり、掘割のような運河にかかる橋を渡ると、煉瓦を積み重ねた門だけが周りのビルに隠れるように建っています。以前の近況にも書きましたが、胥門と盤門は公園になっており、胥門へは早春に行くと、柳の新芽が運河に映えてきれいです。また、盤門では昨年の大晦日に寒さに震えながら除夜の鐘を聞きました。さらに、司馬遼太郎は専用バスで宝帯橋へ出かけています。大学の東門の前の東環路をまっすぐ4, 5キロ南へ下ると、ちょうど杭州からつながる京杭大運河が蘇州城内からの運河と交差し、さらに、蘇州市街の西側へと迂回して無錫へ流れるところに唐代に造られたという宝帯橋があります。ここへは先週自転車で出かけました。彼の表現を借りれば、「蒼古とした花崗岩積みの橋が、背丈を思い切りかがめてながながとつづいているのである。・・・橋は南北に九十メートルで、橋脚だけで五十二脚、つまり五十三のアーチが水面上に美しい半円を描いている。」ということになります。橋は、北側から運河の中洲までまっすぐ伸びて、そこで終わっています。対岸へ渡る橋というより、運河をさかのぼる船を綱でひっぱるために造られたようです。橋の袂に自転車を置いて中洲まで歩いて見ました。中洲には小さなお寺があり、老婆がぽつん寺番をしておりました。橋の東側は京杭運河でひっきりなしに艀や運搬船が通ります。西側は湖沼の湿地で、鷺のような鳥が餌をあさっていました。 大学での最後の授業は15日に終わりました。今期の授業では、欲張らず、たくさん教えず、をモットーに、毎回今日の話題として日本のニュースを紹介したり、クイズや漫画を読んだりと、日本人の教師でなければ出来ないようなことをいろいろやりました。また、学生達と順に食事をして、できるだけ接触するように心掛けました。結果は成功でした。授業の後に、アンケートを書いてもらいましたが、学生達は私を通して日本を想っていたようです。私の授業への出席率が一番良かったとのことです。反面、ある学生から授業の内容が少なかったとクレームをもらいました。事実、教科書の進捗が少なかったため、期末試験の範囲が狭くなり、皆100点をとるのではと妙な心配をしましたが、さすがに杞憂に終わりました。最後の授業のあとで、日頃後ろの席でおとなしい男子学生たちが一緒に食事をしようと誘ってくれました。男子学生のグループを主体に、一部の女子学生を入れて、学生食堂の特別室で宴会となりました。学生食堂にもビールはありましたので、学生達と代わる代わる乾杯をして盛り上がりました。ビール瓶がたくさん空になった頃には、定時のバスはとっくに発車しており、学生に見送られて、文正学院の前からタクシーで戻りました。 24日に担当課目の評価と採点した答案用紙を主任の先生に提出して、蘇州大学での仕事は全て終わりました。この一、二週間、よく学生達がお別れに私の部屋を訪ねてくれました。圧巻だったのは、料理ができない私のために、二組の女子学生達が私の部屋で料理を作ってご馳走してくれました。3月に、IBMの先輩で蘇州の日本語教師の先輩でもある光吉さんが私の部屋で料理を作ってくれましたが、それ以来のクッキングです。材料は学生達が準備して来ましたが、調理器具はほとんどなく、包丁は果物ナイフ、おたまやフライ返しはスプーンで代用し、調味料は改めて学生と近くのスーパーへ買いに行きました。初めの組の学生達は、骨付き豚肉の煮物とトマトの卵和え、野菜炒め、枝豆、大根スープといった献立で、二つの鍋と一つの調理ヒーターを駆使して、器用に料理をこしらえました。感心したのは、大根スープを煮立てながら、一方で次の料理の下ごしらえをするといっただんどりの巧みさと、一品作るそばから、鍋や食器を洗って、きれに調理台を片付けて、狭い台所を上手く使った手際の良さでした。おかげで、こちらはテーブルに座って料理のできるのをただ眺めているだけで済みました。次の組の学生達の献立は、平魚の煮付け、中国風肉じゃが、卵の蒸し物、野菜スープと豆粥でした。前の組の情報が伝わったせいか、足りない調味料は持参し、前掛けも準備しており、こちらもとても手際よく料理してくれました。中でも、魚の煮付けはしっかりと中華風の味つけがなされて、なかなかすばらしいものでした。一般に一人っ子で受験勉強一本やりだった学生達は女子学生でもほとんど料理が作れません。また、学生寮の部屋では安全のために煮炊きが禁止されています。それでも、よほど母親か父親の指導がよかったのか、学生達の腕前には驚かされました。 今回、6人の日本人教師(ご夫婦が一組)が全て蘇州大学を離れるため、日本人教師全員で大謝恩会を開くことにいたしました。これまでの関係者を全員ご招待して、場所は園区の商業街に新しくできた大きな蘇州料理の店で行います。連絡は前日で出欠は当日という中国風宴会方式に慣れた皆さんが、はたしてどれくらい集まってくれるか不安なものがありますが、最後の蘇州生活を締めくくる意味でも楽しみです。2年弱でしたが、実に蘇州での生活は快適で楽しいものでした。おかげで、まだまだ中国で暮らしたいと思っています。7月から、徐州、そして、四川省の成都、重慶へと観光にでかけます。徐州では、夏休みで家に戻った学生達に会ってくるつもりです。それから、一旦蘇州へ戻り、来期の契約手続きや引越し先の確認に南京へ行く予定です。気楽な外食生活のせいか、あまり所帯道具はありませんが、それでも中国の郵便事情を考えると、引越しの準備には気が重いものがあります。昨日、郵便局でダンボールを買ってきました。サイズにかかわらず一個11元と高価ですが、丈夫にできています。送り先はできれば南京にしたいので、よく相談してくるつもりです。そんなわけで、日本へ戻るのは7月中旬になりそうです。今年の夏も暑そうです。6月の東京の最高気温が記録を更新したようです。こちらでも華北地域の温度が40度を超えることがありました。クールビズではないですが、暑さの中健康にご留意ください。 * しょう 門構えの中に昌 |