蘇州近況その16 (2005年5月)


 このところ涼しかった蘇州も今日あたりから日中は30度近くになりました。学生達もTシャツや半袖とすっかり夏のスタイルで通ってきます。

 さて、前回の近況をお送りした頃だいぶやかましかった反日デモや騒乱も、政権幹部の必死の統制でピタリと静かになりました。こちらにいても、あの騒ぎはまるでずいぶんと昔のようですが、実際は何も解決されておらず、なんとなく蓋をしたような状態です。中国側は日本の指導者は行動で反省をと唱え、日本側は(あるいは小泉首相は)決して靖国へ参拝しないとは言っておりません。これでは、先日のサッカーのアジアチャンピオンズリーグのような日中の大試合でもあれば、また再燃しても不思議はないと思います。ただ一連の騒ぎの中で、人民網に載った二つの論評が印象的でした。一つは、中国政府が必死に沈静化に動いている時に出たもので、日本製品の不買運動が現実の日中の経済構造の中で以下に無知で無意味なものか、こちらにしては客観的に論じたものと、もう一つは、この20日に中国外務省の報道官が、日本のODAに対する中国の広報が少ないのではという質問への解答として、「中国はこれまで一貫して積極的かつ客観的な姿勢で紹介してきた」と前置きした上で、中国の経済建設に対して3兆円に及ぶODAが大きな役割を果たしたと評価した見解が発表されたことです。雨降ってほんの少し地固まるの効果でしょうか。

 そんなわけで、四月の下旬から、黄金周(ゴールデンウィーク)にかけて、楽しく旅行することができました。四月の下旬には江蘇省教育局の招待で連雲港への旅行がありました。連雲港は江蘇省の北外れの港町で、孫悟空が誕生した花果山があるので有名なところです。蘇州からは400km程北にあり、高速道路をおよそ6時間でつっぱしることになります。蘇州を出て50kmほど北上すると江陰市に入り、西へ遡上する長江に突き当たります。長江を渡らず西へ200kmほど行けば南京になりますが、長江へ架かる長江大橋を渡って北上します。日本でも知られた揚州、塩城、周恩来の生地である淮安などを抜けて連雲港へ向かいます。道路の回りの風景は大橋を渡った辺りからだんだん変わってきます。蘇州、無錫の辺りでは、経済開発区のような会社、工場群、また、造成中の荒野などが連なり、その間を点在するように耕地や田畑が続きますが、これがしだいに逆になります。さらに、淮安を過ぎると道路の四方は延々と続く麦畑に変わります。新しい高速道路に沿って植えられた小ぶりなポプラ並木を除けば、どこまでも平らな麦畑です。時折、遠方にこんもりとした林のようなものが見えますが、次第に車が近づくとたっぷりの水を湛えた運河や河川に沿ったポプラや柳の並木でした。それを過ぎるとまた、平らな麦畑が続きます。淮安の北東が連雲港で、北西が同じく江蘇省の外れの徐州となりますが、ちょうどこの辺り一帯が昔の軍歌に「徐州徐州と人馬は進む、・・・ 往けど進めど麦また麦の・・」と歌われたところなのでしょう。限りなく続く青々とした麦畑を見て、つくづくこの国がうらやましくなりました。宋や明、さらには、清の時代に江南の穀倉が国を支えるといわれたようですが、うなずけました。中国の都会はどこへ行っても人ばかりですが、背後にはこれだけ豊かな田園が続いているのですね。

 五月の黄金周には、同僚の先生と常熟に行きました。蘇州から高速で30kmほど北上すると常熟です。ちょうど留学を終えて日本から戻ったばかりの本科の3年生が父親の友人と一緒に車付きで案内してくれました。蘇州には山がありませんが、常熟は街の中心に虞山という260m程の山があり、この山の南側が尚湖という湖で、北側から東側にかけて市街地となります。常熟も蘇州と同じように3000年ほどの歴史を持ち、人口もほぼ100万人を超えるようです。最近では街の中心から10kmほど北を流れる長江まで開発区が広がり、日本企業も随分進出しているようです。街の中から山の緑が見えると、日本人にとって何となくほっとした潤いになります。常熟では、郊外にある沙家浜という水郷風景区へ行きました。水郷といっても、蘇州の近くの周庄や同里といった堀と運河の古鎮ではなく、葦や蒲が生い茂る鄙びた農村、漁村といった風情で、葦の間を小舟で巡ります。この辺りの湖沼は、上海蟹で有名な陽澄湖へとつながりますが、静かな水辺を舟で進むとゆったりと穏やかな気分になります。ただ、沙家浜は、最近では日本でも知られるようになった例の愛国教育基地の一つです。昔、この辺りの寒村で茶店を営む阿慶嫂というおばさんが共産党の秘密連絡員をしおり、国民党軍とそれを支援する日本軍を出し抜いて、革命軍を助けると言う物語ですが、「沙家浜」という革命オペラや京劇として随分流行ったようです。公園の中ほどに記念館や当時の茶店をあしらった食堂などがあります。ちょうど我々が訪れた時には、テレビドラマとして撮影中で、湖沼の外れに1930年代の中国の町並みが再現されておりました。電柱や店屋の壁に当時の広告などが貼られて、それらしい雰囲気が漂いますが、大きな広告のいくつかが、仁丹や大学目薬だったのには苦笑させられました。また、町の中心には日本軍の駐屯所も設けられており、当時の日本や日本軍が随分中国の奥深くへと入り込んでいたことが改めて気づかされました。

 さて、蘇州へ帰る時、バスターミナルへ戻ると、常熟に住む文正学院の教え子が待っていて、お土産を渡してくれたのには驚かされました。時間があれば会いたいと、常熟出身の学生に帰りのバスの時間を言っておいたのですが、気を利かせてくれたようです。2日間付き切りで案内してくれた本科生といい、中国の学生達はとても義理堅ところがあります。

 前にも書いたようですが、今学期の授業は、欲張らず、こちらも楽しむようにしています。聴解の授業では、始めはこちらの聴解教材を使っていましたが、テープの日本語のアクセントやイントネーションがおかしいので、日本の教材の一部をパソコンでコピーして使っています。音だけ聞かせて答えさせたり、時にはCDの会話を書き取らせたりしていますが、日本語を始めて1年半と少しにしてはよく聞き取っています。毎回聴解では疲れるので、先月、一昨年流行った日本のテレビ・ドラマの「Dr.コトー診療所」8枚組を街のDVDの店で見つけ、50元で買ってきてきました。こちらの日本物DVDは、時々中国語吹替えもありますが、ほとんどが日本語のままで、中国語、日本語の字幕が付いています。日本語の音声だけでは無理ですが、日本語の字幕といっしょに見せると、ほぼ内容が理解できるようです。10話完結のシリーズもののため、ドラマの中で毎回流れる中島みゆきと柴咲コウの主題歌がなかなか良くて、気に入っています。

 文正での授業は、月曜は午前と午後にまたがりますが、水曜と金曜日は午前で終わります。1210分に授業が終わると、蘇州へ戻るバスは13時発のため、学院の食堂で昼食をとることになります。一人で食事をとるのも面白くないので、なるべく学生と一緒に食べるようにしています。最初は、学生達が遠慮してなかなか寄り付かなかったので、班長に頼んで、一緒に食事をする学生を毎回4名ずつ指名させました。さすがに最近では自分達の方から誘って来るようになりましたが、相手が変わると、会話は毎回同じようになります。先生は中国のどこへ行きましたか。中国の食べ物は好きですか。土曜と日曜は何をしていますか。日本人とあまり話すチャンスが無いせいか、緊張した面持ちですがうれしそうです。こちらも女子学生に取り囲まれて何となく脂下がっております。ただ、少数派の男子学生はまだもじもじして、あまり食事に出てきません。先日、酒でも飲もうと誘って見ました。中国では飲み屋が少ないせいか、こちらの学生はあまり酒を飲みません。もっとも最近の日本の学生も昔のように安酒では盛り上がらないのでしょうが。私の部屋でビールから始めましたが、日本語で教師と話す必要があるせいか、ぎこちない感じです。白酒(茅台酒)、黄酒(紹興酒)、紅酒(ワイン)とありますが、彼らの飲むのはビール、紅酒あたりようです。部屋にあったスコッチを勧めてみましたが、全員初めてだと言っていました。あまり量はいきませんでしたが、それでも胸がドキドキするとか、眠くなったとこ言いはじめました。文正の寮へ戻るのは混んだバスで1時間ほどかかりますし、往来を歩く酔っ払いにもまだお目にかかったことがありませんので、彼らを送り出す時は少々不安になりました。ただ、翌日きちんと授業に出てきたので思い過ごしだったようです。

 ところで、先週の金曜日に期末試験の問題を作って大学へ提出しました。今期は、最終授業が612日の週、試験が617日と22日に確定しました。事情により、蘇州大学との契約は今期で完了となります。中国で継続してさらに頑張るか、それとも日本でしばしリハビリをするか、まだ決めておりませんが、継続する場合には、今度は、蘇州とは別のところで生活してみたいと思っています。蘇州に居るのもあと2ヶ月足らずになりました。思い残すことが無いよう、もっと蘇州を楽しもうと思っております。