蘇州近況その14 (2005年3月)


 この数日、蘇州では寒暖の差が激しく、戸惑っております。朝夕は、23度か、零度にまで下がり、そうかと思うと一昨日は日中の温度が20度を超え、陽に当たると汗ばむほどでした。2学期の開始が228日だったため、先月の22日、一ヵ月半ぶりに蘇州へ戻りました。宿舎の前の十全街は変わらずですが、学校が始まっていないためか、人手も少なく閑散としていました。ただ、昨年よく利用した四川料理と新疆料理の食堂が店を閉めているのが、残念でした。

さて、今期は、法政大学の英文学の教授の方が加わり、日本人教師は5名でスタートです。私の担当は、蘇州大学傘下の文正学院の2年生2クラスの会話と汎読となりました。文正学院は、蘇州市街から、南西に10kmほど離れた郊外にあり、財経学部、外国語学部からなる単科大学で、学生は6000人程になります。市内の蘇州大学と文正学院の間を一日に数本のスクール・バスが報復します。実は、一昨年の9月にも通ったのですが、その時は朝の交通渋滞の中、右に左にと道をくねって、到着するのに40分を超えることもありました。今は、大学を出て3ブロック程南に下った辺りから、ハイウエーに乗って、名勝地の石湖や森林公園を右手に見ながら20分程走ると、到着します。文正学院のある呉中区越渓鎮は、蘇州国際教育園として開発中で、既に、2校の語学専門学校が開講しています。日本でも御茶ノ水にあった中央や明治がどんどん郊外へ出たように、上海、蘇州でも市内の大学が次第に郊外へ移転しているようです。ただ、まわりには、大学や専門学校以外にこれといった建物はなく、学生達はまるで学校に監禁されたように閉じ込められます。市内の蘇州大学の学生は、留学生との交流や、様々なアルバイトも比較的自由にできるのに対し、こちらは市街へ出るのに路線バスで1時間弱もかかるため、夜は勉強する以外にすることはなさそうです。

文正学院は、建物の建設と管理、学生の募集は民間資本で行い、大学の教育と教務は全て蘇州大学が請け負います。この方式は、急増する教育需要への対応と、大学経営の安定化のモデル方式として実施されたようですが、統一試験で点数の足りなかった学生達の受け皿としても有効なようで、今では、上海や、他の地域でも同様な方式が広がっているようです。前述したように、授業が終わると、教師や教務の職員も大学のバスで引き上げて、夜の校内には、全寮制の学生と警備員だけが残るといった、いささか殺伐とした光景になります。私立学校のため学費は高く、寮も蘇州大学の倍以上の費用がかかるそうです。しかし、その室内は、蘇州大学より新しく、ゆったりとした4人部屋で、テレビまであります。先生達は少し揶揄したように「金持ち学校」と呼んでいますが、事実、日本への私費留学は蘇州大学より多く、学生達の服装もややカラフルで、スカートを穿いた女子学生もちらほらいて、リッチな雰囲気が漂います。

 クラスは、蘇州大学が一クラス30人弱なのに対して、40人弱と人数が多く、男子も8人前後と多くなります。受講態度は、授業中に私語する学生も若干おりますが、総じて、蘇州大学とあまり変わりません。学力も、話す方はやや弱いようですが、黒板へ書く文章はほとんど理解できています。会話の授業は人数が多いため、実際には、聴解の練習となりますが、視聴覚教室で行うため、パソコンやDVD,CDなどが使えます。今学期は、学生と一緒に楽しむ授業をしようと、さっそく近所の店で、「踊る大走査線」、「たそがれ清兵衛」、「敦煌」のDVDを全部で21元という安さ(300円弱)で買ってきました。しかし、清兵衛以外は、残念ながら日本語、中国語の字幕がありませんでした。2年生には、字幕無しで日本語の映画やドラマを理解するのは、まだ無理でしょう。ところで、中国語では、日本語の濁音、半濁音の区別が曖昧で、発語直前に息を出すか出さないかといった有気、無気音で行います。先日、会話の授業で、試しにクイズを出してみました。私の発声がどちらかを当てさせるものですが、特に、生態−盛大、神秘−審美、サイパン−裁判、日が照る−日が出る、などは8割以上の学生が区別できませんでした。発音も私の後に付いて言わせれば言えるのですが、一人になると怪しいものです。そのせいか、私も時々オオガワ先生と呼ばれます。また別に、汎読の授業では、漢字パズルをやってみました。

   利                                                                
使□意(便子用注)      毎□間(朝年満生)  下□術(手着言忍)
                                                                 

□に入る字を一字( )から選んで、四つの熟語を作れというものですが、これには、問題を黒板に書いているはしから正解が飛び出します。用心をヨウジンと正しく読めるかは心もとないのですが、流石に漢字の国だけあって、識別する力はすばらしいものです。

 昨日辺りから、裏の運河の柳の葉がいっせいに芽吹き始めました。きっと西南にある胥門公園の運河に沿った柳の並木も一斉に芽吹いて、あざやかな若緑の芽を暖かくなった風にまかせて揺らいでいることと思います。この公園には、旧城内へ入る古い門が残されており、胥門と言われます。紀元前5,6世紀の春秋時代に、呉王闔閭(こうりょ)に仕えて、呉を大国にのし上げた宰相の伍子胥(ごししょ)が、後を継いだ呉王夫差(ふさ)に疎まれて殺され、その時、「わしの目をくりぬいて呉の都の門にのせてくれ。越の兵が攻め込んで、呉を滅ぼすのを見物しよう。」といった故事に因んでいるようです。現在の胥門公園はすっかり整備され、運河沿いに遊歩道が作られ、対岸には昔の蘇州を思わせる白壁の商館や民家のパビリオンが建ち並んでいます。公園の中ほどには、運河をめぐる遊覧船の船着場となっており、宿舎から30分程の手軽な散歩コースなので、ちょくちょく出かけます。ところで、春秋時代には、蘇州から南へ12030km程下った杭州が越の都で、この呉と越は、呉越同舟や臥薪嘗胆などと言われて、互いに争っていたことで有名です。呉王の夫差が薪の上に寝た方で、越王の勾践(こうせん)が肝をなめた方にあたります。市内のあちこちにこの時代の旧跡が残っており、市街の北にある蘇州駅から、北西へ少し進むと闔閭や夫差が葬られたという虎丘があります。平らな蘇州市街には珍しく、こんもりとした小さな丘になっており、その頂上には斜塔で有名な八角七層の雲岩寺塔がやや傾いて建っています。この塔は蘇州のシンボルといった存在で、起伏の少ないこの辺りでは、かなり遠方からでも見ることができます。南京から蘇州へ向かう高速バスで、右手前方にこの塔が見えてくると、ああ蘇州へ着いたのかとほっとさせられます。蘇州南東の郊外にある霊岩山寺は、夫差が中国三代美人で有名な西施のために立てた離宮の跡を寺にしたそうです。小高い丘の上から眺める蘇州の市街は、遠方まで広々と平に開かれ、鉄筋のアパート群が延々と連なる様子がよく見渡せます。越王の勾践と宰相の范蠡(はんれい)が夫差を篭絡させるために送り込んだのが西施で、それ以来、すっかり夫差は政治を忘れ、伍子胥を殺し、ほどなく越に滅ぼされます。春秋時代の古跡としては、さらに、盤門があります。闔閭に命じられて伍子胥が蘇州に造った城壁の水門の跡を公園にしたもので、現在も元の時代に復元された水門や城壁と、3世紀の三国時代に造られ、宋の時代に再建された瑞光寺塔、水門に流れる運河に架けられた石のアーチ型の呉門橋などあります。盤門は、市街を囲む運河の西南の角にあり、宿舎からも小一時間で来られる近さですので、昨年の大晦日には、この瑞光寺の鐘を聞きながら年を越しました。すっかり、呉の話が長くなりましたが、中国の中で蘇州が名高いのは、宋や明になって、絹織物や紡績業、国内や海外への貿易港、商業・金融の中心として繁栄し、その財力で、市内の各所に造られた世界遺産の庭園などによるのですが、それはまた、次に機会を見つけて報告したいと思います。

 今春は、私の前々任者で、昨年は湖南省の岳陽で教鞭をとっていらっしゃった光吉先生が、任期を終えられて日本へ帰国の途中、立ち寄ってくださったり、また、来週からは、IBMの先輩やそのお客様でいらっしゃった方々が上海からわざわざこちらまで足を伸ばしてくださいます。この近況をお読みいただいている皆様も機会があれば是非蘇州へお越しいただければ幸いです。

以上

追: 第10期全国人民代表大会 第3回会議が今月3日より、14日まで北京の人民大会堂で行われ、そのトピックスは、「反国家分裂法」(台湾問題)でした。