蘇州近況その12 (2004年11月〜12月)


 今朝は昨夜来の雨が止み、薄日が差してきましたが、気温はこれまでより34度下がり、いよいよ冬の様相となってきました。これまで天気が穏やかで、暖かい秋でしたが、やはり、暦どおりの天候に急速に近づきつつあるようです。十全街のプラタナスも大振りの葉をしきりに落とし始めました。

 さて、今回は、昨年も一部ご報告しましたが、こちらの生活の一端をご紹介します。私の宿舎は、大学経営の東呉飯店というホテルの一角に有ります。通りから少し入った敷地の正面にホテル棟の1号楼、2号楼があり、そのすぐ奥が、留学生達の5号楼、6号楼、ホテル棟の右手を奥に入ると、外事弁公室の4号楼、そのさらに右側が宿舎の3号楼となります。建物は4階建てで、昨年の6月ごろ建て直された新しいものです。私の部屋は2階にあり、123畳のワンルームでバスとトイレが付いています。設備は他に、小さなキッチンがあり、冷蔵庫、電子レンジ、炊飯器、電器プレート、オーブン、ポットに中華鍋が標準装備です。バスルームには、洗濯機と給湯器もありますが、この給湯器のタンクが小さく、バスタブにたっぷりお湯をためると、後は水しか出なくなります。この3号楼は、外国人教師や交換教授達の専用で、日本人の他、アメリカ、オーストラリア、ロシア、フランス、韓国などと国際的です。留学生棟にも様々な外国人がおりますが、多数派は、韓国、日本、台湾などとなります。日本からの留学生は、学費と生活費を含めても、年間100万円程度で済みますので、450人以上は居るようです。台湾は別として、これらの留学生のほとんどが外国人専用の中国語コースに通います。レベルに応じて、1級から10級以上のクラスもあり、もう23年留学している上級者から、日本の大学を食い詰めたような風体の学生や、退職した中高年のおじさん、おばさんまで様々です。

 東呉飯店を出ると、直ぐに十全街という通りに突き当たります。十全街は、蘇州市の南にあり、市街の東端から人民路まで東西に横断する2km程の通りです。道の両側はプラタナスの街路樹ですが、だいぶ育ったプラタナスはバスの往来を邪魔するように枝を縦横に伸ばしています。この通り沿いには、蘇州飯店、南園賓館、南林飯店等のホテルが並び、その観光客のための土産物、バー、マッサージなどの店が多く並んでいましたが、淘汰が激しく、この一年で次第に地元の人を当て込んだ瀟洒なブティックや靴屋等に代わっています。ありがたいことに、通り沿いには小さな大衆料理屋もたくさんあるので食事には不自由しません。朝は、部屋の中でトーストとコーヒーで済ませていますが、昼と夜は自炊をせずに、これらの料理屋へ通います。料理屋は地元の江南料理から、広東、四川、台湾、新疆、また韓国料理と豊富です。定食屋風の店では、炒飯から何々丼のようなかけご飯で、小さな碗とお新香がついて78元程度、普通の小料理屋では、一品料理を頼むと、安いもので一皿が1020元、高いもので2030元程度で済みます。夕食に炒飯の一品では寂しいので、肉と野菜の二皿、スープに地元の太湖水ビールで30元から40元程度となります。肉には、鳥、豚、牛、羊、犬までありますが、羊が一番高く、また、肉より魚のほうが値が張るようです。ただ、中華料理の鳥や魚は骨や小骨もそのまま料理しますので、食べるのがやっかいです。教師仲間の宴会や、学生たちとワイワイやる以外は、一人か、隣室の外食派の先生と二人で出かけます。三品ぐらい頼むと二人でも多すぎるぐらいで、結局注文する料理は決まったものになりがちです。やはり中華料理は、7, 8人で行くのが最も効率的です。

 大学の授業は、朝8時から12時まで、午後は2時からで、場合によっては、6時過ぎからの夜間もあります。外国人教師は1コマ40分の授業を平均12コマ担当します。学生も教師も主要な専門科目はほとんど午前中で、午後は体育や政治など全学共通の必修科目が多いようです。日本語学科は主に大学の西門の側にある、古びた常悦楼、常怡楼、また、北側の正門の側にある新しくて設備の整った理工楼で授業を行います。西門から、北門まで約500m近くあり、どの先生も始業のベルが鳴るとすぐ授業を始めますので、時間によっては、学生達は休憩の10分間に大慌てで移動することになります。

 他の中国の大学と同様に蘇州大学も全寮制ですので、学生達は校舎棟の脇に並ぶ宿舎で生活します。宿舎は古いものから、最近では足りなくなったのか、大学の外にある新しいものまで様々で、費用は年間500元から1200元とバラつきます。安い部屋は、8人部屋、高い部屋は4人部屋と広さは異なるようですが、全棟、冷暖房なしで、バス、トイレは共同、また部屋での自炊は一切禁止です。従って、学生の一日の始まりは、大きな魔法瓶を抱えて、近くの給湯所へお湯を取りに行くことから始まります。

食堂は広い校内に、第一食堂、第二食堂などといくつもあり、朝はお粥とお新香で1元程度、昼と夜は、ご飯とスープにおかずを2品程度選んで5元ほどで食べられます。通常、学生はこれらの食堂で食べているようですが、朝ぎりぎりまで寝ている学生は、途中の売店で飲み物と小餅などを買って教室へ駆け込みますし、また、昼や夕食も、西門の外には、安食堂が軒を並べていますので、飽きればそこで食べるようです。

学生達は、午前中は授業、午後は早めに昼食を取って、普通は部屋へ戻って昼寝、それから夜まで自習といったサイクルのようです。部屋が狭いためか、休日でも、空いている教室でよく自習する姿が目立ちますが、何といっても人気の場所は、最新の空調付きの図書館のようです。ところで、企業は別として、まだ中国では昼寝の習慣が残っており、大学の教務も昼は2時まで休みになっています。

 豊かな学生もいますが、大半は江蘇省の様々な地域からきた学生が多く、年間5000元の学費は親達にとっても大きな負担のようです。従って、学生の生活も比較的質素です。夏休みや冬休みにも家に帰らずアルバイトで頑張る学生も少なくありません。日本語科では、12年生は日本料理屋でのアルバイトが多く、これで1時間数元程度、34年になると工業園区や新区に住む日本の会社員や家族への中国語の家庭教師で、これは1時間4050元程度となります。さらに良くできる学生は、時々、通訳に企業へ駆り出されて、一回当たり、100200元も貰う者も居るようです。日本の学生のように、連日のように繁華街を飲み歩いたり、休日のたびに上海へ遊びに行く学生はほとんどいないでしょう。現在、4年生達は、企業への実習や卒業論文の準備。また、125日行われる日本語能力試験の準備でおおわらわです。

 話は変わりますが、11月の始めに一人で南京へ旅行に出かけました。インターネットでホテルを予約し、バス・ターミナルから南京直行の高速バスに乗りました。蘇州から南京まで高速で約200km、ちょうど東京−浜松といった感覚です。これで64元ですので、日本よりだいぶ安上がりです。この高速道路は上海−南京を結ぶ幹線ですが、現在、ほとんど全線に渡って片側4車線への拡張工事中で、蘇州を出てから南京へ着くまで3時間程かりました。

南京は、蘇州と同じ人口540万、直轄市は蘇州より大きく290万の江蘇省の省都です。三国志の時代の呉の都で、また、元が起こる前の南宋、明の初期、また、中華民国の首都でもあったところです。市の外側を西から北へ長江が流れ、東と南は小高い山に囲まれています。市街は、南北に細長く、昔は、縦10km、横5kmの長方形を城壁が囲んでいたようですが、現在でも比較的良く残されています。特に、東から南にかけては、半分以上が残っており、城壁に沿って、緑地や公園となっています。市の中心街の新衛口にあるホテルに2泊して、1元の路線バスを乗り継いで市内を隈なく見て回りました。

市の東側に500m程の紫金山があり、その中ほどの南側の斜面に、明の初代洪武帝の明孝陵と孫文の墓である中山陵が並んでいます。北京にもある明の皇帝陵は、前面に大きな石造りの門があり、奥が小山のような墳丘となっています。まわりは城壁で囲まれ、遺棺のある玄室は墳丘の地下に埋まっています。周りは緑で覆われ、辺りの山肌によく溶け込んでいます。明孝陵から中山陵までは、遊園地にあるような電気自動車がゆっくりと往復しています。中山陵は、蒋介石が建てたといわれますが、門からは、幅が数十メートルもある広い石段が延々と続きます。石段の先に、ワシントンのジェファーソン記念堂を小さくしたような円形の墓室があり、正面に大きな孫文の座像と、真中に棺が静かに安置されてありました。周囲はよく手入れをされ、清潔で、参拝や観光客も引っ切り無しに訪れるのを見ると、現代中国で孫文が敬愛されているのがよく分かります。中国のどの都市にも、中山路や中山公園がありますが、最初は、中山が孫文の号とは知らず、また、共産中国との取り合わせもなんとなくで、気が付きませんでした。紫金山のこの辺りは、森林公園のようになっており、市内に丘や森の少ない蘇州と比べるとうらやましく思います。

市内では、城壁の中華門や、夫子廟、総統府などを見て廻りました。夫子廟は孔子を祭ったところですが、ちょうど日本の浅草のような感じで、廟の周りには老舗の料理屋が軒を並べています。週末でもあり、観光客や地元の人たちでごった返していました。総統府は市街の中心にありました。国民政府の跡なのですが、以外に広く、よく保存されていました。時代は異なりますが、孫文の執務室が簡素なのに比べ、蒋介石のそれが豪華だったのには思わずにやりとさせられました。南京は、日本軍の南京攻略の際、世界初の戦略爆撃が行われたところですが、これらの建物が当時のものだとすれば、よく残ったものだと感心させられます。

さて、日本人としていささか重い南京大虐殺記念館にも出かけました。ホテルから路線バスに乗り、市の西の外れの江東門というところで下りて、少し歩くとすぐに分かりました。記念館は、日本軍が遺体の始末をした跡が最近になって見つかり、その上に建てられたとのことです。この春から入場が無料となり、夏ごろまでは連日満員で、入場を予約制にした程だそうです。門を入って、展示室へ向かうとその表面には大きく犠牲者300000人という文字がありました。展示室は中庭を取り巻くように建てられています。中庭は広いスペースに丸い小石が河原のように敷きつめられて、荒涼とした感じがします。この小石の一つ一つが犠牲者の象徴であり、また、慰霊するものだそうです。中庭の外れに、発掘現場をガラスで覆った別棟の展示室がありました。見るとたくさんの人骨が土の中に横たわっています。主なものには、性別、年齢、死因などの解説が付されています。展示室の脇には線香売り場があり、また、展示室の横に線香を供える場所がありました。ここでは、日頃賑やかな中国の人たちも静かに展示を見て廻っておりました。門から外へでると、江東門のこの一帯は、当時は何も無い野原か、畑であったのでしょう。でも現在は、南京の開発から遅れた、ほこりっぽい商店や街工場がたくさんある下町のようなところだったのが妙に印象的でした。

南京は、市街地が広く、また、街の東側の紫金山の麓に玄武湖という市街地の中としては広い湖があり、街としての歴史も豊富です。さらに、上海のように高層ビルが林立していないので、なんとなく落ち着いた雰囲気があります。夏は暑いと聞きますが、それが無ければとても住み易そうな所でした。

早いもので、もう12月に入りました。授業も期末試験の心配をする時期となりました。今年の試験は、新年の最初の週になりそうです。師走に入り、皆様も何かとお忙しいとは思いますが、健康にご留意ください。

追: 前回、男朋友を何と書けばよいのかとお聞きしたところ、皆様からいろいろアドバイスを受け取りました。一番新しいことばは「彼氏」で、アクセントが上がるようです。ただ、やはり学校へ提出する作文にカレシでは妙なので、結局、無難にボーイフレンドで済ませました。いろいろご意見ありがとうございました。

追2: 以前、何人かの方に、蘇州は呉の都ですと話しましたが、これは古いほうの呉で、呉越同舟の春秋戦国時代の呉でした。この呉は、呉王夫差(ふさ)が西施に溺れ、越に滅ぼされます。