蘇州近況その11 (2004年10月)


 国慶節の連休が明けたころから、日本でいえば体育の日の連休明けから、蘇州では朝夕がだいぶ肌寒くなってきました。幸い、天気は好天続きで、おだやかな日々が続きます。日本では、今年は台風の当たり年のようで、先日の23号の被害について、こちらでもテレビのニュースで放映されていましたが、皆様のところは大丈夫ですか。

 授業は順調に進み始めました。こちらも学期全体を見通して、何回目には何をと、カリキュラムの概要を頭に描いて授業が出来るようになりました。それに照らすと、9月、10月は結構休日や休暇が多く、やや遅れ気味で頭を悩ませています。101日の国慶節では、2日の振替はありましたが、一週間の休暇でした。先々週の金曜日は、日本からの洋上大学の訪問で、学生たちが交流会に駆り出されました。そして、先週は21日から23日まで大学の体育祭で休講です。体育祭は全学での学部対抗とかで、クラスから1,2名が選ばれて、

短距離走や対抗リレー等に出場するようですが、他の学生の大半は休日と割り切って、応援にも行かず、故郷に帰る者もいるようです。

 さて、今学期は、本科の3年生の作文を担当しています。毎回課題を与えて作文を書かせ、それを添削して返します。さらに、よく出る間違えを解説して、直るまで修正させるというように進めています。こちらにも日本と同じ原稿用紙があり、描き方は若干違うようですが、使い方はお手の物のようです。さすがに3年生にもなるとそこそこに日本語で文章が書けるようになります。初回のテーマは自己紹介で、現在は日記がテーマですが、国民性なのか、個人の性格なのか、随分とあからさまに文章を綴るので、時々こちらがドキリとします。ある子は、中秋節に彼氏とデートをして、食事の後に行くところがないので、大学の時計台の前の芝生のキャンパスで満月を見たと書いてありました。別の子は、好きな男の子がいたので、思い切ってラブレターを書いたら、友達でいようと言われてがっかりしたと、切ない思いをせつせつと書いてきました。これには思わず、めげずに頑張りなさいとコメントを書いてしまいました。まだまだ助詞の使い方や、自動詞と他動詞の混同など間違いは多いのですが、彼女らの生活や考え方がよく分かります。

ところで、この「彼氏」という表現なのですが、授業では、この表現はもう古いので、「彼」とか「ボーイフレンド」、あるいは、「恋人」の方が良いと説明しましたが、皆さんはどう思われますか。こちらでは、英語のsteadyに近い、周りも公認の決まった異性の友人を男朋友、女朋友といって、単なる異性の友人とは区別していますが、今の日本語ではこれを何と表現すればよいのか迷います。大学に入って、3年、4年になると、多くの女子学生には男朋友がいるといわれますが、しかし、彼女、彼らの結婚は遅いようです。女性の方は、せっかく大学を出て、就職ができたのだから、仕事の目処が立つまで頑張りたいと思うようです。男性の方は、相手の両親へ結婚の許可をもらいに行く時、せめて二人の住むマンションぐらい用意しなければ格好がつかないと思うようです。でも、蘇州辺りでも安くても年収の10倍はするマンションを買い整えるのは並大抵ではないでしょう。なかなか男はつらいものです。

話は戻りますが、先の国慶節が一週間の連休となったため、廬山(ろざん)へ出かけました。私の前任者の光吉先生や木澤先生の教え子で、旅行社にいる胡継忠さんに旅行をセットしてもらい、同僚の先生方や留学生の方たちと胡さんを入れて7名で、廬山(ろざん)、景徳鎮、九江を回りました。廬山は泰山、黄山、崋山と並ぶ中国四大名山の一つで、ちょうど中国の中ほど華中地方の江西省にあります。廬山へは、上海から江西省の省都南昌まで飛行機で行き、そこから2時間ほど車で走ります。飛行機は上海を離陸し、太湖の南側をかすめ、まっすぐ西へ飛びます。窓から見下ろしていると、江蘇省を過ぎて安徽省(あんきしょう)に入った辺りから、緑の山々が続きます。それが江西省へ入ると、山が途切れて平地となり、やがて大きな湖の上を飛び始めます。現在の中国で最も大きな?陽湖(はようこ)のようです。南昌も夏は暑いと聞きますので、中国の内陸にある大きな盆地を想像していたのですが、機上から眺めると、見渡すかぎりどこまでも平らで、関東平野ほどの広さがあるのではと驚かされました。

廬山は?陽湖の水が長江へ注ぎ込む境にある1500mほどの山塊です。まわりに高い山が無い独立峰のため、長江や?陽湖からの眺めもすばらしく、昔から文人墨客に人気が高かったようです。阿片戦争や太平天国の乱が終わったあたりから、南京に来る西洋人の目に留まり、ちょうど日本の軽井沢のように西洋人の避暑地としてにぎわいました。ただ、平らな高原というよりは、箱根を思わせる山塊の迫った湖のほとりや山の斜面のあちこちに青い屋根の瀟洒な洋館が建ち並びます。革命後にこれらの洋館は徴収され、解放前は党幹部の保養地としてにぎわい、現在では中国のホテルや保養所としてそのまま使われています。旧別荘街の中心には、小ぶりな石造りの教会があり、そのすぐそばに、「美廬」と呼ばれる蒋介石と宋美麗の別荘がありました。この別荘はさらにその後、毛沢東や江青の別荘として使われたようで、そこから少し下ると文化大革命へ続く基点となった1959年の廬山会議の会議場も残されており、近代、現代史の跡がそこここにあります。おもしろかったのは、美廬の20畳もあるという広い浴室に、洋式のバスタブとトイレがある中で、その真ん中に中国式の水洗トイレ(和式と同じです。)がでんと据えられていたのには笑ってしまいました。なんでも後で毛沢東が特注させたのだそうです。

中国の人は山の景色には雲が好きで、深山の趣は雲に霞んだ峰々や峡谷にあると思っているようですが、我々が行った時には、生憎の好天で雲や霧はありませんでした。そんな中、比較的楽に上がれる五老峰へ登りました。廬山に限らず、こちらの山は頂上まで全て石段とコンクリで固めます。いささか山の情緒は損なわれますが、連休の賑わいの中、様々な人々が登っていきます。車で山門まで行き、そこからゆっくり登って1時間半ほどで山頂へ着きました。手軽に登った割には、眺望はなかなかのものがありました。五老峰は廬山の東側のため、北から西には、廬山の他の峰が連なり、東から南には、やや霞んでうっすらとした中に?陽湖が大きく横たわっています。独立峰のため、下からの勾配はきつく、比較的急峻な山容のところどころに中国風の東屋が見えます。チベットや日本アルプスのような広大さはありませんが、気軽に高山の雰囲気が楽しめるために、昔から人気があるのでしょう。

さて、廬山から車で1時間ほど下り、九江の市街に宿を取り、そこから景徳鎮へでかけました。景徳鎮へは、?陽湖の東側を南へ100kmあまり、九景高速道路を下って行きます。

途中、?陽湖が長江へ流れ込む糊口へ寄りました。石鐘山(せきしょうざん)と言う?陽湖のほとりにある小高い丘に登ると、左側の長い?陽湖大橋の下を?陽湖の湖水がゆうゆうと流れ(?)、それが、そのままやや右遠方に見える長江へとつながります。どこから?陽湖でどこから長江かよく分かりませんが、ガイドが言うには、水の色の違うところが境だそうで、そう言われれば、やや右手前方から奥にかけて、長江のあたりにより茶色がかった水の境界線が続いていました。

 景徳鎮はこちらの期待がロマン的に過ぎたせいか、いささか期待がはずれました。鎮というからには、陶器を焼く窯から陶器を売る店まで、たくさん寄せ集まって続いている古めかしい町並みをイメージしていましたが、現実の景徳鎮は既に鎮ではなく、景徳鎮市という人口40万の都会でした。車の中から見る市街は、確かに普通の街より陶器の店や問屋が多いようでしたが、車と人であふれる中国の他の都市とあまり違った印象はありません。民俗、歴史博物館、古窯の発掘跡、現代の陶器工場と見てまわりましたが、印象に残ったのは、陶芸学校や陶芸大学を出た若い女の子達が精緻な景徳鎮の文様の下絵の入った壷に、慎重に絵付けをしている様子でした。陶器に不案内なこちらには、本場で見る壷よりも上海博物館で見た明や清の景徳鎮の壷のほうがすばらしかったような気がしました。

 最終日は、九江の市街とその周辺です。九江は、はるか重慶、武漢から南京、上海へと中国大陸を東西に横断する長江のちょうど中ほどにあたるところです。そのため、古くから様々な物資の集散地として栄えてきたようで、江西省では、南昌に次ぐ第二の都会です。市内には、甘棠湖や八里湖などといった湖があり、ゆったりと落ち着いた街ですが、江南の華やかさに比べるとややくすんだような印象でした。泊まったホテル目の前が長江で、14階の部屋からは対岸の湖北省や、また、やや東には長江にかかる九江長江大橋がよく見えて壮観でした。この辺りで長江の川幅がどれほどなのか、ガイドに聞いてみましたがよく分かりません。大橋の袂に行った時、橋桁を勘定してみると、14,5あったので、桁と桁の間隔を100m強とすればおよそ1.5km近くになります。ホテルの前から西へ少し歩くと、港へ出ます。看板に重慶、武漢とか、南京とありますので、ここから船に乗れば、時間はともかく、蘇州へも簡単に帰れそうです。また、大橋からややホテル側のところに鎖江塔という傾いた古い塔がありました。ガイドの説明では、この塔は日本軍の砲撃で傾いたとのことです。事実、廬山と九江は日本軍に占領されていた時期があったようです。それにしても、上海、南京は別にして、こんな内陸の奥にまでよく日本軍は侵攻してきたものです。さらに奥の武漢を落としたのですから不思議はないのかもしれませんが、当時の技術や装備で広い中国をよくもここまでと思いました。こちらの不勉強もありますが、日本軍の足跡は予想以上に中国全土に広がっていることが分かりました。

 飛行場へ帰る途中で、再び廬山の麓へ戻り、浄土宗の発祥地である東林寺や陶淵明記念館へ寄りました。廬山やその麓は、中国の大詩人たちの詩や歌で有名ですが、左遷された白楽天が心を癒したのもこの辺りのようで、その草庵は廬山の上の花径公園に移されておりました。残念なことに高校時代に習った漢詩はほとんど忘れましたが、かろうじて覚えていた田園詩人陶淵明の『帰去来』に、「帰りなんいざ/田園まさにあれなんとす・・」と歌った田園がこことのことでした。そのゆかりの地に陶淵明の記念館がありました。草深い丘の上には饅頭型の墓陵があり、その下には当時の住宅の一部と小さな展示館があります。国慶節の連休にしては、我々以外の観光客はほとんどおらず、普段も来館者はあまり居ないのではないかと思わせるほど静かでやや古びたところでした。記念館の横の沼で鷺が一羽のんびりと餌をあさっていたのがなんとも印象的です。

 帰りは、南昌を夕方5時半に発って、1時間足らずで上海、そこから車を飛ばして8時には蘇州に着きました。1日休んで、授業に出ると、学生たちは故郷へ帰った者も、帰らずに寮で過ごした者もおりましたが、皆元気なようです。むしろ、連休疲れでパッとしないのはこちらのようでした。連休で遅れた分をなんとか取り返そうとこれからピッチをあげようと思いますが、それらの様子はまた次号にでもご報告いたします。