9月の蘇州は少し汗ばむ程度で、時折小雨は多いのですが、もうすっかり秋の気配です。9月1日より、こちらでは新学年が始まりました。私自身も蘇州大学外国語学院日本語学科の教師として2年目のスタートです。今学期の担当は、本科2年生の汎読と日本事情、本科3年生の作文、成人教育2年生の日本事情です。本科2年生は2クラスあるため、全部で6講座、12コマとなります。汎読はエッセーや小説の抜粋の講読であり、日本事情は日本の地理、社会、歴史の解説、作文は文字通り綴り方です。例によって、学科主任の先生からの正式な担当の発表と時間割、クラス名簿、教科書の配布などの打ち合わせが、8月30日に行われるというあわただしさでした。おまけに、時間割に従って9月1日の朝、少し早めに教室へ行くと、担当する学生は着席していましたが、どうも科目が違っているようで、私の授業では無いと言っています。休憩室へ戻って、居合わせた日本語科の中国人の先生に調べてもらったところ、時間割が変更になっており、なんと私の授業は2日からとのことでした。あとで聞くと、時間割の混乱は私だけではなく、他の先生方もまごつかれたようです。それでも、あまり混乱無く授業を始められたのは、どの教科も昨年から経験済みで、何となく余裕を持てるようになったからだと思います。 本科3年生を除いては、皆新しいクラスで、初回の授業はお互いに自己紹介をやりました。学生の出身地は、大学が江蘇省立のせいか、常熟、無錫、南通、常州、遠くは連雲港、徐州など近隣の市区が多く、心なしか地元蘇州の出身者は少ない気がしました。日本語学習の目的を聞いてみると、やはり、日本の漫画や映画が好きだから、良い会社へ就職したいから、将来日本へ行きたいからなどがほとんどでした。クラスの8割が女性、2割が男性です。皆懸命にこちらの話を聞いていますが、やはり日本語のヒヤリングは今一つで、重要な言葉は黒板に漢字と読みがなを書くと、初めて納得します。ちょうど昨年の今頃、同じように現在の3年生を相手に、一体どこまで分っているのかつかめなくて、心持甲高い声を張り上げていたことを思い出します。その3年生の授業を始めてみると、こちらの話すことは7,8割理解できており、また、何となく大人っぽくなって、服装のセンスもなかなかです。本当に1年間の進歩、成長には驚かされます。3年生に、「2年生は子供っぽいけれど、君たちは大人らしくなって、それに美しい。」といったら大いにうけました。 さて、話は変わりますが、今回、新学期に赴任するに際して、少し早めに日本を出て、IBMの友人である大場さん、小谷さんを誘って、北京、西安、上海を回って蘇州に入りました。昨年、突然の決心で中国へ来たせいか、私にとって、中国語を始め、中国経験はいったて乏しいものです。それを補うために、冬季や夏季の休暇を利用しては、中国の各地を旅行することにしています。入国管理の制約のためか、パック旅行を途中で抜けて蘇州へ戻ることができないため、中国の旅行社を通じてプライベート旅行をセットしてもらいました。日程は、北京2日、西安2日、蘇州2日、上海1日といった忙しいものとなりました。北京は7月に夏季休暇で横浜へ戻るとき、北京、大連と回って帰りましたので、私自身は2回目となります。その北京では、主に故宮、万里の長城、明十三陵などを見物しました。夏休みのせいか、故宮は中国の人たちの団体でごった返しておりました。7月の時にも感じましたが、いつ来ても故宮の大きさには驚かされます。儀式や政務の公式な場である太和殿や保和殿は当然として、その奥にある皇帝、皇后やたくさんの妃達の生活する宮殿の数の多さは大変なものです。また、それぞれの宮殿を仕切る漆喰の赤い大きな塀が迷路のように入り組んでどこまでも続く中を歩き回るのも面白いものでした。万里の長城は、いくつかある中で、一番有名な八達嶺に行きました。三人で2時間かけて、起伏の大きな長城をひたすら歩きました。幸い良い天気に恵まれて、高い所から見た長城の外側には、小高い山々が続くその遥か向こうに、荒涼とした原野ではなく、緑の草原と湖のようなものが薄っすらと見えたのにはいささか意外でした。 さて、北京から西安へ向かう時に、北京の飛行場でトラブルに会いました。航空会社のチェックインを済ませ、荷物を預け、搭乗口の待合室で待っていたのですが、時間を過ぎても搭乗の気配がありません。搭乗口の係員に問い合わせると、搭乗口が変更になったとのことです。あわてて変更された搭乗口へ行ってみると、もう搭乗機は出発した後でした。腹いせにだいぶ文句を言ったのですが、何ともなりません。またチェックイン・カウンターへ戻って次の便の搭乗手続きをすることになりました。驚いたのは、預けた荷物はてっきり西安へ飛び立ったと思ったのですが、なんと空港に残されておりました。再び荷物を引き取って預け直しましが、一度預けた荷物が、何故、残されていたのか未だに分りません。取り残された乗客は我々だけだったようですので、どうも、変更の案内はあったようですが、待合室がざわついていたのと、旅なれたメンバーと一緒でお互いに安心していたのがあだとなりました。そんなわけで、西安の飛行場へは3時間遅れて着きました。 西安では市内見物の他、東の郊外にある兵馬俑、西郊外の漢の皇帝陵を見物しました。西安は昔の街を囲む城壁がそのまま残されているところで、現代の中国の都市では他には例が少ないようです。城壁の周囲は13,4kmとのことですが、今残されているものは漢や唐の最盛期と比べると、明の時代に造られたずっと小ぶりのものだそうです。城壁内の東側にあるホテルへ行くのに、渋滞と一方通行のため、西の門から入って、一度南の門から出て、また南の門を入るという面倒くささには驚きました。西安は中国の西部では最大の大都会ということですが、北京の広くて重々しい町並みや、上海の高層ビル群を見ると、随分と見劣りがします。また、少し郊外へ出ると道路の舗装率も悪く、赤茶けたような農村風景が見られます。このあたりが、中国の沿岸部と西部の経済格差なのかと妙にうなずけました。兵馬俑はさすがに圧巻でした。広い体育館のような建物の中にズラリと兵士がならんでいます。上から見ると小さく見えますが、下へ降りると、どれも170から180cmの偉丈夫です。印象的だったのはまだ発掘が続いており、おそらく、この当たりの丘や畑を掘ればまだまだ様々な遺跡が出てきそうだとのことです。遺跡公園のように整備が進んだ兵馬俑に比べると、西側の漢や唐の陵墓群は、ずっと素朴です。西安から歴史に名高い渭水を超えると、広々とした田園風景になります。ちょうど一面のトウモロコシ畑でしたが、そのあちこちに小高い緑の土饅頭が見えます。それらが漢や唐の陵墓とのことでした。その中で漢の武帝の墓の茂陵とその将軍である霍去病の墓へ行きました。武帝といえば長い中国史の中でも西域を含め最大の版図を広げた皇帝ですが、その陵墓は畑の中に潅木で覆われた小高い小山があるだけで、表面に唯一大きな石碑で武帝の墓と記されているだけでした。部下である霍去病墓の方が、博物館などがあり、ずっとりっぱなのには驚かされます。 気の会う仲間と毎日たらふく食べて、たらふく飲んで、少々疲れ気味で蘇州へ戻りました。約二ヶ月ぶりの蘇州ですが、北京、西安から入ると、むうっとした蒸し暑さを感じました。蘇州では、大場さん、小谷さんを虎丘、寒山寺、留園などへ案内しましたが、大観光地の北京、西安に比べて、その印象はどんなものであったのか、いささか心配です。お二人ともいろいろなお土産を買われて無事上海から戻られましたが、私が中国初心者のため、予想を超えた散財の中国旅行では無かったのかと反省しております。 話はまた戻りますが、9月10日は教師節でした。この日は全国的に、教師は生徒や学生から日頃の労をねぎらわれ、贈り物をもらいます。私も、まだ1,2回しか顔を合わせていない新しいクラスの学生から、感謝カードや贈り物を貰って恐縮してしまいました。宿舎の近くの中学校には「祝第二十回教師節」との垂れ幕が掲げられておりました。中国にベテランの日本人の先生の解説では、四人組の時代に散々痛めつけられて自信を無くした教師たちを勇気付け、また、教育の重要性を再認識させるために1984年にケ小平の発案で実施されるようになったとのことです。バレンタインデーの義理チョコののりで贈り物を受け取っていましたが、背景がわかると、なんとなくこの国の苛烈な現代史の一面を覘いたような気がしました。 9月も半ばをまわると、もう中秋節です。日本と同じように旧暦の8月15日に名月を楽しみますが、今年は閏年のせいかそれが9月28日になります。中秋節には月餅を食べるのがこちらの風習ですので、街では贈答用の月餅の売り出しが盛んです。月餅は中身が餡のものと、肉味噌仕立ての2種類があります。近くのパン屋で鮮肉月餅と称して1個1元で売り出しているので、買って食べてみましたが、餡のものよりまわりがサクサクでなかなかおいしくいただけました。クラスで十五夜と中秋節の比較をして、学生に中国の月には何が住んでいるのか聞くと、うさぎと美女との答えです。美女は嫦娥だそうですが、日本とそっくりというか、これはそのまま日本が習ったのでしょう。中秋節が終るとすぐに国慶節となります。祝いごとが続きますが、その様子は次回にでもご報告させていただきます。日本でもそろそろ涼しくなる時期と思いますが、健康にご留意ください。 追:最近の中国ニュースから 1)8月の乗用車販売台数 2)中国デジカメ市場 3)中国企業納税額ランキング |