南京近況その9 (2006年9月)


 今年は、8月の末から新学期、新年度が始まりました。南京の大学は学生の新学期ラッシュを緩和するためか、大学ごとに学期の開始日をずらしているようです。南京工業大学では、他校に先駆けて、今期は828日から始まりました。学生に聞くと、おかげで学校に戻る列車がそれ程混んでいなかったといいます。

 久しぶりに戻った南京ですが、何件かの商店の入れ替えを除けば、いつものように活気と喧騒に溢れています。今回は、朝950分のANA便で成田を発ち、3時間のフライトで上海に着いたのが、中国時間の12時でした。浦東空港から南京までの直通バスが1日4便出ており、その1420分発に乗り、南京へ向かいました。バスは国内線の虹橋空港を経由し、南京の中央門バスターミナルへ19時ごろ着きました。南京にも国際飛行場はあるのですが、日本便は週2便の関空行きだけで、成田からでは上海経由でしか来れないのが面倒です。

 さて、今期の授業は、3年生の3科目6時間のみという「おいしい」ことになりました。今期は、提携先の鹿児島大学から日本人の先生がいらっしゃることになり、私の担当分が減ったようです。時間割では、週2回、木と金のみ学校へ出ればよいので、体を持て余しそうです。それで、こちらから提案して、3年生と4年生を対象とした日本語能力試験の勉強会を行うことに決めました。能力試験は年112月に行われます。能力試験の資格は大学の単位や卒業条件にはなりませんが、こちらでは、日本企業の採用条件が能力試験1級取得者となるため、3年時からほぼ全員が受験します。出席自由の勉強会としたのですが、予想通り、4年生の未取得組み40名弱、3年生の全員が申し込んできました。残り2ヶ月強の期間では、今から慌てても、もう遅いのですが、これで学生が発奮すればと、学年別の2コマを始めました。

 ところで、学期初めに、正規の授業の作文の時間で、夏休みについて書かせてみました。こちらの学生の過ごし方で一番多いのが、暑いのでどこへも出かけず、家でテレビを見たり、ブラブラして、時々、高校時代の同窓生と遊ぶといったものです。日本のように海外へ出かけるといった豪華なものはありませんが、それでも家族と旅行したり、地方の同級生の家へ遊びに行ったりした学生も何人かおりました。中国の就労環境では、まだ夏休みは一般化していないようです。親達がまとまった休暇を取れるのは、春節、5月のGW10月の国慶節と年3回しかありません。一家で避暑や遠出をするのはまだ少数派なのでしょう。もちろん、日本の学生のようにアルバイトをした学生も少なくありません。彼らが言うには、アルバイトの目的は、お金より、社会経験だそうです。アルバイト代は、110元、多くても2030元程度でしょう。また、最近の車社会を反映して、教習所に通ったという学生も何人か出て来ました。ある学生は、その動機を就職に有利だからと書いていました。長短は別にして、3000元と大学の年間学費の半額で免許がとれるようです。だんだん夏休みの過ごし方も、日本のそれに近づいて来ることでしょう。

 例年と同じように、学期が始まって12週間後に、新入生が入学してきました。日本語科にも1クラス30名弱の学生が入ってきたようです。彼らは、入学後すぐに軍事教練を受けさせられます。キャンパスの至る所で、迷彩色の戦闘服に身を包んだ学生達が行進している様子が目に付きます。隊列を組んで歩くだけですから、あまり激しいとは思えませんが、それでも隊列の脇に決まって数人の落伍者が休んでいます。先輩の学生たちに言わせると、最近の学生は過保護で体力がないのだそうです。2週間足らずの教練ですが、最終日には、どこかの地獄の特訓と同じように、苦しさを乗り越えたという実感から、感極まったり、軍人の教官を取り囲んで名残を惜しむ姿があちこちで見られます。

 時間は逆になりますが、いつも休暇で帰国する時、中国のあちこちを旅行するようにしています。今回は山西省の太原、平遥、大同を見て回りましたので、簡単にその紹介をいたします。まず、南京から太原まで飛行機を使いました。運賃は片道800元と割引なしで、北京(600元)の手前にも係わらず、割高です。山西省は、青島で有名な山東省や河北省の西隣で、洛陽のある河南省の北にあたり、いわゆる中国古代の中原の一角になります。太原空港から平遥までは直通のバス便がないため、空港バスで一度太原の市内へ出て、市内のバスターミナルから平遥に向かいました。

 平遥は南京、太原に比べるとずいぶん鄙びた地方都市ですが、その中心に、平遥古城と呼ばれる、明・清時代の城郭都市がほぼ完全な形で残った世界遺産があります。街を囲む城壁は、周囲6.4km、高さが12m、幅5mだそうですが、目の前で見ると、ほんの少し末広がりにカーブした高い城壁がはるか遠くまで続く様子はなかなか壮観です。にぎやかな西門から入ると、2階か、せいぜい3階建ての昔のままの建物が狭い碁盤上の道路に沿ってひしめいていて、少し広めの幹道には、観光客目当ての軽三輪や輪タクでいっぱいです。真中の市楼から延びる西大街、南大街が観光の中心で、レストランや土産物屋が軒を並べ、また、平遥は昔金融業で栄えたそうで、当時の両替商の店「票号」が小さな博物館として、何件もそのまま残されています。建物の一つ一つが京都の町屋を思わせる造りで、間口はせまいのですが、奥行きが広く、中庭もあります。それらの中で建物のやや大きめなものが「民族旅館」として営業しています。中に入って見せてもらいましたが、建物や外壁は昔のままでも、内装は現代風で、空調と水洗が付いていました。インターネットで予約したため、宿泊は城外のホテルにしたのが残念です。にぎやかな大街を外れても、様子は同じで、さすがに建物は煤けて、古びてはいますが、現実に人々が生活しています。穿って言えば、人の住むテーマパークといった所でした。

 平遥に2日いて、太原に戻りました。太原で、地元出身の学生と落ち合って、次の日、二人で大同へ出かけました。大同は太原から北へおよそ400km、山西省の幹線らしく、高速道路を大型バスが何本も走っています。市街を抜けると、バスは広大な緑の丘陵地帯を走りますが、よく見ると、丘陵にはたくさんの亀裂が入り、裂け目から黄褐色の地肌がのぞいています。丘陵の緑も鬱蒼というより、潅木や背丈の低い草木で覆われている程度です。これが黄土高原なのでしょう。大同へは4時間ほどで着きました。

 大同は、敦煌の莫高窟、洛陽の龍門石窟とともに中国3大石窟の一つ雲岡石窟で有名です。石窟へは、大同の市内からタクシーで小一時間ほど、40元で着きました。丘陵の岸壁に寄り添って建つ楼閣を中心にして、左右1kmほどのところに、大小50以上の石窟があります。石窟で大きなものは、奥行きは45メートルですが、高さは20メートル以上あります。中に掘られた仏像は坐像、立像など、これも20メートル弱の大きさがあり、なかなか荘厳なものでした。ただ、雲岡石窟は、広くて、見晴らしのよい丘陵地帯の一角にあり、離れて見ると、巨大な仏像の力感がなんとなく薄れるように思えたのが残念でした。

 帰路は、太原から上海へ抜けました。上海の虹橋空港へ降り立ったとたん、ムッとする湿気を感じ、改めて、カラッとした華北から、湿潤な江南へ戻ったことが実感されました。

 さて、もう10月に入ります。今年の中秋節は106日だそうです。昨日、大学からお祝いの月餅をもらいました。大学は、一般より少し早めに、今週の29日から国慶節の連休に入ります。中国全土で大移動が始まりますので、あまり遠出をせずに、近場でゆっくりしようと思います。気候もちょうど過ごし易くなってきたようです。皆様も、さわやかな秋の陽気をお楽しみください。

追: 前編の「蘇州近況」に書きましたが、縁があって、20033月に、当時上海総領事の杉本信行氏に蘇州大学でご講演をいただきました。その杉本氏が先月癌のため逝去されました。お悔やみいたします。今、氏の絶筆となった「大地の咆哮」が評判となっているようです。私も読みましたが、中国の専門家が病を意識されたせいか、現代中国について忌憚なく書いておれます。皆様へもご一読をお勧めいたします。
「大地の咆哮」杉本信行著 PHP研究所 ¥1,700

追2: 前からお約束していましたが、近況の様子を写真でも伝えるホーム・ページがようやく出来ました。まだ、試作ですが、漸次改善いたします。ご意見、ご感想をお願いいたします。              http://home.h00.itscom.net/yohkawa/