河西回廊を巡る (2011年7月)


河西回廊について

河西回廊とは蘭州から敦煌へ至るシルクロードの東端を言います。細かく言えば、蘭州を出て、黄河を渡り、祁連山脈(きれん)の烏鞘嶺峠(うしゅうれい)を越えた辺りから敦煌までの路を指します。この路は、南に祁連山脈、北は内蒙古の砂漠に挟まれ、東西1000kmあまりの長さで敦煌、新彊へと続きます。黄河の西の細長く延びた路ということで河西回廊(河西走廊)と呼ばれます。省からみると、南の青海省、北の内蒙古自治区に囲まれた甘粛省の東西に細長く延びた部分となります。因みに、甘粛省の面積は45.4ku、日本の面積の1.3倍ですから、その広さが察せられます。

この河西回廊は、古くは秦、漢の時代に万里の長城の西端が造られ、西方の軍事拠点として、また、五胡十六国の時代には仏教伝来の路として、さらに、盛唐時代にはシルクロードの商業路として栄えました。回廊に沿って、蘭州、武威、張掖、酒泉、嘉峪関、敦煌とオアシス都市が続きます。今回、敦煌を訪れるに際して、昔のように、これらの諸都市を巡りながら行くことにいたしました。

 

武威(涼州)

 77日にバスで蘭州から最初の都市、武威へ出発しました。蘭州−武威は280kmほどの距離があります。薔薇で有名な蘭州市の永島県を過ぎて、武威市天祝チベット族自治県に入ると烏鞘嶺が見えてきます。烏鞘嶺は祁連山脈の東端にあり、353600mの高さで、

山頂の辺りは厳しい岩肌をみせていますが、バスは2600mのなだらかな烏鞘嶺峠を越えて武威に入りました。辺りの景観は心なしか緑が増え、展望も広がります。蘭州は黄土高原の丘陵に挟まれ、黄河に沿った細長い都市でしたが、武威ははるか南に祁連山脈が見えるだけで、緑の草原や田園の中にある広々とした地方都市でした。

 旅行ガイドにあった天馬賓館に泊まり、翌日市内観光に出かけました。主な観光地は、古刹の海蔵寺、5世紀に中国への仏教伝道に尽くした鳩摩羅什(くまらじゅう)ゆかりの羅什寺塔、河西回廊の中で一番大きな文廟(孔子廟)、西夏博物館、雷台などになります。武威は1113世紀の西夏王国の副首都で、博物館には西夏文字と漢字で書かれた碑石がありました。雷台は漢の古墳の上に建てられた道教の雷神廟ですが、その下の漢の古墳から青銅で作られた軍隊の副葬品が出土され、特に、その中にあった「銅奔馬」が有名です。現在、銅奔馬は蘭州の甘粛省博物館に収蔵されていますが、街のシンボルとして市内のあちこちにそのモニュメントがありました。武威市は漢代に甘粛省全域を涼州として、その刺史(長官)が置かれたところです。現在も涼州区(都市部)の人口は98万人ほどもあり、他の諸都市より大きいのですが、あまり高層ビルも見られず、緑の中に広がる田園都市といった趣でした。

 

張掖(甘州)

 武威に2日いて、9日に張掖へ向かいました。張掖から旅行を一緒にする男子学生、市内の案内を頼んだ地元出身の女子学生と合流する予定です。武威−張掖はおよそ230kmで、バスは南に祁連山脈を臨みながらとこまでも広がる平原の高速道路を西へまっすぐ走ります。金昌市を過ぎると、北側にも小高い山塊が見え始め、張掖の山丹市へ入りました。ここはなだらかな山麓に羊や馬が放牧されており、古くから馬の産地として有名です。山丹を抜けると、所々に灌木や草が生えた荒れ地が続き、やがて、高さ23mの黄色い土をもった万里の長城が見え始めました。この辺りの長城は明代に造られたもので、高速道路や敦煌へ向かう鉄道の線路と平行に続きます。ちょうど河西回廊でも新幹線の工事が始まっており、古代の長城と並んで、現代の長城が延々と続いているようでした。

 張掖は、古くは甘州と言われ、漢の武将の霍去病が前線基地を置き、また、悲劇の武将李陵の部隊が駐屯して訓練を行ったところと聞きます。バス停で案内の学生と落ち合い、紹介してくもらったホテルに荷物を置いて、さっそく市内観光に出かけました。街の中心に大きな鼓楼があり、その南に西夏時代に建てられた大佛寺や隋の万寿寺木塔があります。ここの大仏は横になった涅槃像で、そのため大仏殿も間口が50mもありました。元代にマルコポーロも訪れており、「東方見聞録」にこの大仏の記述があるそうです。張掖は河西回廊の中核都市として栄えたようで、甘州区(都市部)の人口は50万人ですが、路線バスも頻繁に走り、武威よりも賑わっているように感じました。

翌日は、祁連山脈の山麓にある民楽県へ出かけました。民楽は、張掖から山脈を越えて青海省へ抜ける幹道の途中にあります。夏の盛りでしたが、田畑には黄色い菜の花が咲き誇り、長く続く山麓は一面に黄色く萌えていました。学生もこの辺りは初めてだそうで、さしたる観光地には行かれず、祁連山脈の中腹までバスにのり、そこから引き返しただけでしたが、祁連山脈の急峻な岩肌と、急斜面の山麓で放牧されているヤクや羊を見物して戻りました。

張掖の市内には2日泊まり、3日目は張掖丹霞地質公園へ行くため、学生の家がある臨沢(りんたく)県へ向かいました。この地質公園は中国でも有数だそうで、丹霞地形という、赤系や茶系の様々な色合いの礫石や砂岩、泥岩が重なった岩山が続きます。地元では「紅い山」と呼ばれるそうです。学生の友人の家が公園の裏門に通じていて、そこから入れば入場券は入らないということで、裏門から広い公園内を歩いて、観光ポイントへ向かいました。しかし、変な方向から歩いてきたためか、結局管理人に見つかって、正規の入場券40元と広い園内を巡る遊覧バス代20元をとられました。広い園内の所々に観光ポイントが置かれ、その展望台から見る光景には圧倒されました。燃えるような赤褐色の岩石が連なり、また、幾層もの断層が折り重なって、山全体が燃えているような印象を受けました。文字通り紅い山でした。

 

酒泉(粛州)

 この日は臨沢県のホテルに1泊し、翌日、張掖へ戻らずに直接学生達と酒泉へ向かいました。張掖から臨沢まで40km、臨沢から酒泉まで200km弱の距離となります。辺りの景観は、武威から張掖へ向かった時と同じように、南に祁連山脈を臨みながら、臨沢等の町や村落の周辺では緑の田畑が続き、しばらくして郊外へ出ると、灌木や草が茂る荒野が続きます。

 酒泉市は甘粛省の中でもっとも広い市で、124県から成り、敦煌市も酒泉市の中にあります。しかし、なぜか酒泉市の中心である粛州区は東の外れ、張掖市のすぐ隣にあります。酒泉は張掖と並んで河西回廊の中核都市で、古くは粛州と言われ、張掖の甘州と合わせて、甘粛省の由来となって所です。区部の人口は35万人ですが、経済的には最も発展しているようで、現代風の店舗や商業ビルも多く、特に、南にある世紀広場にそびえる市庁舎の威容には驚かされました。蘭州から続く祁連山脈も酒泉まで来ると高度をまし、5000mを超えるようになります。市庁舎の前からは、はるか遠方に山頂に雪を頂いた祁連山脈の山々が良く見えました。

 ここでも酒泉出身の学生に迎えてもらい、交代するようにここまで案内してくれた学生が張掖へ戻りました。酒泉の市内観光の中心は地名の由来となった泉がある西漢酒泉勝跡です。漢の名将霍去病が匈奴を破った時、武帝から送られた戦勝祝いの酒を泉に注ぎ、将兵全員で飲んだという故事があります。公園の奥に石で囲まれた小さな泉があり、泉の真ん中からこんこんと水が涌いていました。これがその泉なのでしょうが、霍去病といえば紀元前2世紀の人です。泉が少し新しいように思えました。市街の北にある大法幢寺には張掖と同じように大きな大仏の涅槃像がありました。また酒泉でも街の中心に鼓楼が残されており、街のシンボルになっています。その日の夕食は学生の両親が市内の火鍋レストランでご馳走してくれました。食後、学生達と市庁舎のある世紀広場まで散歩し、広場の茶店で冷たいビールを楽しみました。

 

嘉峪関(かよくかん)

 嘉峪関は酒泉のすぐ側にあり、距離も20km程でした。酒泉からは乗り合いバスで、2元で行かれます。どういう訳か、現代の行政区では小さな嘉峪関市が酒泉市に取り巻かれるように存在しています。人口は21万人で、こじんまりとした地方都市ですが、敦煌観光の主要なコースの一つのためか、街なみの割にはホテルの多い所でした。嘉峪関でもまた地元の学生に案内を頼みました。  

有名な嘉峪関は市街の外れにあり、路線バスで行かれます。明代ではここが西方への最前線基地であり、明代の長城は嘉峪関が西端となります。往時を復元した城塞が建てられており、テーマパークのようです。城壁の上に立って辺りを眺めると、西は宏遠な砂漠が広がり、南には雪を被った祁連山脈が続き、北は黒山と呼ばれる小高い岩山がそびえます。いかにも西方の最前線といった趣きが醸し出されます。園内の長城博物館で見ると、万里の長城は主に秦、漢、明の各時代に大規模な造営が行われています。西方に限れば、一番内側が明で、次に秦、漢と続きます。漢の長城の西端は敦煌の玉門関や陽関の辺りまで伸びていて、一番外側になります。嘉峪関の入場券は懸壁長城、長城第一トン(物見台)といった他の観光施設とセットになっていました。長城第一トンは嘉峪関から7.5km西にあり、ここが明代の長城の西端となります。長城はここから嘉峪関を経て、黒山山麓の懸壁長城へと延びています。しかし、これらを回る交通手段がなく、門前のタクシーが2か所を巡って90元というので、タクシーを利用して回りました。ここの主な観光地は嘉峪関の周りにあるため、1日で見物することができました。

嘉峪関での夕食は案内してくれた地元の学生に家に呼ばれ、彼女のお母さんの手料理をご馳走になりました。料理はもちろんですが、地元の西瓜、杏、桃等もたくさんいただきました。西へ進むに連れて果物はだんだん甘くなるようです。ところで、嘉峪関での観光が順調だったため、予定を変えて、次の日は嘉峪関と敦煌の間にある瓜州で1泊し、楡林窟と鎖陽城を見ることに決めました。

 

瓜州

 嘉峪関から瓜州まではおよそ260kmあります。さすがに嘉峪関を出ると、河西回廊は砂漠の様相を呈します。これまでの灌木や草の荒野から植物の姿が消えて、砂礫が多くなります。それでも130kmほど走って玉門市へ近づくと再び緑の田園に戻りました。付近の田畑は菜の花に代わって、向日葵の栽培が目につきました。菜の花よりも濃い黄色の向日葵が一面に咲き誇っているのが車窓からよく見えました。玉門市を過ぎると再び砂漠に入りました。もっとも学生に言わせると、これは砂漠では無く、砂礫が多いのでゴビ灘(たん)というのだそうです。玉門から瓜州までの道筋には、ちょうどウルムチの郊外のように、たくさんの風力発電の風車が回っているのが印象的でした。また、この辺りから、今までずっと南に見えていた祁連山脈が見えなくなり、周りは平らに広がる砂礫だけになりました。

 長い間砂漠を走って、緑の田園が広がる街に入ると、まさにオアシス都市といった感じがします。瓜州は、現在は酒泉市瓜州県で、人口9万人の小さな地方都市です。駅前でホテルを探してうろついていると、タクシーが寄ってきて、楡林窟、鎖陽城を回って300元だと勧めます。観光地が街の中にあるとよいのですが、校外にある場合には、個人旅行だと足の確保が問題になります。ホテルに荷物を置いて、食事をしていると、同行の学生が食堂の主人と交渉して240元の白タクを確保してくれました。幸い、白タクは真新しい乗用車でタクシーよりはるかに快適でした。

 楡林窟、鎖陽城は瓜州から7080km離れており、砂漠の中をひたすら南へ走りました。楡林窟は砂漠を流れる小さな峡谷に沿って作られており、以前行ったトルファンのベゼクリク千仏洞を小さくしたような感じでした。唐から清にかけて41か所の石窟が掘られており、カメラや荷物を受付に預けて、解説員について主な石窟を回ります。甘粛省の石窟はなかなか厳しく管理されていて、写真がとれないのが残念です。鎖陽城は楡林窟の東30kmの所にあり、これも砂漠の真ん中にありました。唐の将軍薛仁貴(せつじんき)が籠城したことで有名なようです。現在は、まさに草むした土塁が残されているだけですが、厳しく照りつける砂漠の太陽の下をガイドに案内されながら見て回りました。楡林窟や鎖陽城の観光では、幹線道路を外れて、ひたすら砂漠の中の細い道をドライブしたことも強く印象に残りました。

 

敦煌(沙州)

 15日の朝、いよいよ瓜州から敦煌へ向かいました。距離は100kmほどですので、砂礫の砂漠の中を2時間ほどで着きました。実は、蘭州大学の私の担当する1年生のクラスには3人の莫高窟の管理会社のガイド達が派遣されて、日本語を学んでいます。まだ日本語で案内するまでには至りませんが、今回敦煌の案内を彼等に頼みました。

 敦煌の初日はガイドの一人Yさんに市内を案内してもらいました。敦煌は酒泉市の中にある県級市で、人口13万人、古くは沙州と呼ばれていました。あまり大きな街とは言えませんが、道路もきれいで、ホテルも多く、国際観光都市といった様相です。街の中心に沙州市場があり、多くの飲食店や土産物屋が集まり賑わっています。その日は早めに地元の驢肉黄麺というロバ肉の入った麺料理で夕食を済ませ、夜の7時半過ぎに鳴沙山・月牙泉の観光に出かけました。敦煌は甘粛省の西の外れのため、7月の日没時間は9時半過ぎで、砂漠の鳴沙山観光にはこの時間帯が涼しくてよいのだそうです。しかし、残念ながら、この日は風が強く、辺りは黄色い砂塵に覆われて園内はほとんど見えません。そのため、観光を諦めて沙州市場へ戻り、皆で羊の焼き串と冷たいビールで喉を潤しました。

 翌日は、ガイドのOさんの案内で、郊外にある雅丹(ヤルダン)地質公園と玉門関の見物に出かけました。玉門関は敦煌の西80km、雅丹公園はさらにその先80kmにあり、新彊ウィグル自治区との省境にあります。雅丹は砂漠にある岩山が砂礫で削られ、風化され、様々な形の奇岩が林立しています。Oさんのご主人がこの公園の管理者として働いており、彼の運転で周囲45kmの園内を一周しました。天気は晴れていましたが、昨日と同じように風が強く、日射しも強烈で、存分に砂漠の景観を満喫しました。帰りに途中にあった玉門関に寄りました。玉門関は漢代の国境線であり、ここから南にある陽関まで長城で結ばれていたようです。現在では、ゴビ灘砂漠の中に黄色い土で固められた長方形の土塊があるだけです。

 この日は昨日と同じ時刻に、再び、鳴沙山・月牙泉へ向かいました。鳴沙山はゴビ灘ではなく、サラサラの砂でできた砂漠の山で、敦煌市街の南端から西へ40kmに渡って延びています。ここは莫高窟と並ぶ敦煌の二大観光地で、たくさんの観光客でにぎわっていました。ハイライトはラクダによる砂漠の遊覧と、鳴沙山の奥にある月牙泉の景観です。園内の入口には何百頭ものラクダが観光客を乗せたり、降ろしたりとたいへんな盛況でした。我々は10元の布のオーバーシューズを買って、砂山へ登りました。砂山は思ったより急斜面で、一歩踏み出すと砂が崩れてなかなか上へ登れませんでした。山頂へ登ると、また強風が吹き始め、身体中砂だらけになりました。月牙泉は三日月の形をして砂山の谷間の中にありました。長さは200mほどあり、砂に枯れることも無く、青い水が満々と満ちていたのが不思議です。

 

莫高窟(ばっこうくつ)

 17日に路線バスに乗って莫高窟へ出かけました。莫高窟は敦煌の東南30kmの郊外にあり、甘粛省の他の石窟と同じように4世紀の五胡十六国時代から清にかけて作られ、734窟あります。入口付近は駐車場、土産売り場、食堂などが整い、国際的な観光施設といった感じです。入場券は中国人が160元、外国人は180元でした。これまでの施設では全て高齢者割引で半額でしたが、莫高窟は割引もなく、また、外国人は別値段とは驚きました。その理由は、莫高窟の見物には全てガイドがつき、外国語のガイドは割高なためだそうです。入場門の前で教え子のガイド達が出迎えてくれました。彼等はまだ日本語でのガイドができないため、先輩の日本語ガイドが引率するグループに合流して見て歩きました。石窟は一般窟と特別窟に分けられ、特別窟を見るには別に観覧料が必要になります。一般窟では、一番大きな大仏がある96窟や敦煌文書が隠されていた17窟などは必ず案内されますが、その他はその日の状況によってガイドが案内する石窟を決めるそうです。だいたい123の石窟を2時間ほどで回るのが標準なようです。全ての石窟は施錠されており、見学の度にガイドが鍵を開けて中に入り、説明が終わるとまた施錠していました。グループでの見学が終わった後、ありがたいことに、教え子のガイド達とさらにいくつかの石窟を個別にゆっくりと見てまわりました。

 これまで甘粛省の石窟をたくさん見てきましたが、莫高窟の石窟は特別だと思いました。それぞれの石窟が大きく、中にある仏像や壁画も丹念に作られており、また、保存状態も良いことに感心します。ここの石窟を見て、私なりに中国で何故このように石窟が盛んなのか理解できました。これまで、石窟とは僧侶が自分の信仰心を表現するため岩壁へ仏像を彫るのかと思いましたが、どうも石窟は素封家や権力者が自分達の繁栄を祈るために作った一族の寺院なのではないかと思います。ガイドの説明でも各石窟にはスポンサーが付いていたとのことです。また、ここの石窟は単に壁に仏像を彫るのではなく、深く洞窟を掘り、中央に台座を作り、その上に仏像を安置します。そして、その台座の周りを回って礼拝するのが流儀だそうです。各時代の有力者達はここに自分達の石窟を作り、節季や節目に参拝し、一族の安寧や繁栄を祈って台座を回っていたのではないでしょうか。

 さらに、莫高窟の特徴は一つの石窟に複数の時代の手が加えられていることです。天井の壁画は北魏だが、壁は唐で画き加えられ、仏像は清の時に修復されたといった石窟が多いようです。清の時代に大掛かりな改修があり、どうもそれが杜撰に行われたため、返って壁画や仏像を損なう結果になったようです。その他、特に莫高窟で感心したのは飛天図です。莫高窟の壁画は極楽浄土を描いたものが多く、中央に釈迦や様々な仏が描かれますが、その周りを多くの飛天(天女)が飛び交っています。中には楽器を持って演奏している飛天も多く見られます。敦煌市のシンボルは頭の上に琵琶をかかげて演奏している飛天像です。各時代によって飛天の姿は少しずつ違うようですが、自由奔放に極楽を謳歌する飛天図は見ていてとても心が和みます。

 

敦煌から蘭州へ

 敦煌の最終日は、またガイドのYさんの車で陽関、西千仏洞を見学しました。玉門関が漢の時代の西の玄関であったのに対して、陽関は南の玄関でした。ただ、玉門関が砂漠の真ん中にあったのに対して、こちらは丘陵の上にあり、周囲に川が流れているせいか、緑が豊かでした。丘陵の上の楼閣から西をみると、前方には遥か彼方まで砂漠が広がっています。まさに砂漠のシルクロードへの玄関といった印象でした。西千仏洞は陽関のすぐ側にありました。これも渓谷に沿って石窟が掘られていますが、莫高窟に比べると観光客も無く、規模も19窟と随分小さいようです。莫高窟を見た目には石窟も壁画もなんだか拙く見えました。以上でこの日の観光が終わりました。その後は敦煌の市街へ戻り、帰りの列車の時間までYさんとビールで喉を潤して、旅の疲れを癒しました。

 随分長い旅でしたが、これで予定していた箇所を全て見物することができました。蘭州から敦煌へ来る時は、バスで一つ一つ都市を巡りましたが、帰りは鉄道で一気に帰ることにしました。敦煌を18時頃出て蘭州へ翌朝の9頃着く寝台特急が2本あります。蘭州まで距離は1100km2等寝台で400元、3等寝台で270元だそうです。乗車券の手配をガイドのOさんに頼んでいましたが、観光シーズンのため、乗車券はほとんど旅行会社で押さえられているそうです。結局、旅行会社に高い手数料を払って買うことになりました。敦煌へ来るまで9日間かかりましたが、帰りは一晩で戻ることになります。

 

河西回廊の旅を終えて

 久しぶりに長い旅をしました。地元の学生や教え子のガイドにはとても世話になりました。最後に河西回廊の印象をまとめてみると次のように感じました。まず、回廊と言うので、なんとなく狭い道をイメージしましたが、大きな間違いでした。各都市から、祁連山脈が見えましたが、麓まで行くには60km以上も離れています。同様に北の砂漠も遥か遠方です。昔の隊商や旅人達は路を失わなかったのでしょうか。広い平原が1000km以上に渡って続くのですから、羨ましくなります。

 回廊の平原は、武威から始まりますが、嘉峪関を境に様相が変わりました。武威から嘉峪関までは緑が比較的豊かな平原です。各都市の回りはよく手入れされた緑の田園が続きました。都市から離れると、荒れ地にはなりますが、草木も多く、羊などがよく放牧されていました。7月でしたが、気温も快適でさほど暑さを感じませんでした。それが、嘉峪関から先はゴビ灘砂漠に変わりました。草木もほとんどなく粗い砂地や雅丹のような奇岩が続きます。これまで見えてきた祁連山脈も見えにくくなり、何もない平原か砂漠の丘陵が続きます。日射しも容赦なく照りつけます。ただ、玉門市、瓜州県といった市街やその他の集落に近づくと急に緑が増え始め、川や田畑を目にするようになります。まさにオアシス都市といった趣です。

 甘粛省は中国でも人口の少ない省です。人のいない平原や草原、砂漠を1000km以上も旅して、改めて中国の広大さを思いました。