蘭州近況その35 (2014年11月)


河口慧海とチベット

 10月の国慶節にチベットを旅行しました。その余韻のせいか、チベットについてもっと知りたくなり、河口慧海の「チベット旅行記」を読み始めました。慧海は1回目のチベット旅行から戻ったあと、『西蔵旅行記』上下巻を明治37年(1904年)博文館より出版しています。その本が1978年に講談社より、新字新仮名に直され、『チベット旅行記』(一)〜(五)として出版されました。2007年現在で43刷を繰り返すほど評判の本のようです。幸い、これが底本となり、インターネットの青空文庫に掲載されました。また、アマゾンのキンドル本にもなり、無料で配布されています。私はそのキンドル本で読みました。読んで見ると、波乱万丈、まるで大冒険小説を読んでいるようで止められなくなり、最後まで読みつづけました。また、表記も平易で、明治に出版されたとは思えぬほど新鮮でした。慧海が苦労してネパールからチベットへ入り、ラサでチベット仏教を学び、再び、インドへと戻るまでが書かれていますが、その間、チベットで観察した、風俗や生活、社会や政治状況等も詳細に書かれ、当時、黎明期にあった民俗学や文化人類学の本としても優れたものだと驚かされます。チベットを知る上で、とても参考になりました。今回は、この本を紹介してみたいと思います。

 

チベットへ向かう

 河口慧海は1866年堺市に生まれ、同志社や哲学館で学び、東京の五百羅漢寺の住職となりますが、やがて宇治の黄檗山へ移ります。そこで、素人にも分かりやすい経文を作りたいと思い立ちますが、漢訳の経典はたくさんあり、どれがよいかわからない。サンスクリット語の原典にあたりたいが、現在では失われています。ただ、小乗仏教の経典はセイロンに、大乗仏教の経典はチベットにそれぞれ翻訳されて残されており、当時の学界の定説では、チベット語の経典は逐語訳に近く、正確であると言われていました。それで、チベット語の経典を研究しようと決心し、18976月、32歳でチベットへ向かいます。
 カルカッタから、英領インドのダージリンへ入り、そこで、インド人のサラット・チャンドラ・ダース師を紹介され、チベット語の勉強に励みます。当時、チベットは鎖国しており、インドやブータン、ネパールなどの街道には関所が設けられ、外国人の入境を厳しく取り締まっていました。現地で慧海が調べた結果、チベットへの入境はネパールからヒマラヤ山脈を越えて行くことに決め、カトマンズからネパールのロー州のツァーラン村に移ります。そこで、途中で知り合った、セラ大学で仏教を学んだモンゴル人の博士からチベット仏教を習い、同時にヒマラヤ越えのルートを探ります。そして、19006月にダウラギリ山の北麓からチベットへ向かいました。ちょうど日本を出てから3年目でした。

 

チベット潜入の経路をたどる

 1900年の7月慧海は国境を越えてチベットへ入りました。それから東のラサに向かわず、逆の西にルートをとり、チベットの西北高原のマナサルワ湖やカイラス山へと迂回してラサを目指します。ちょうど、日本で言えば、神戸へ上陸して、九州へ向かい、桜島を回って、京都から東京を目指すようなものです。
 途中、吹雪の中を野宿したり、川で溺れかけたり、泥炭に沈んだり、おまけに、追剥ぎに会って金と荷物を盗られたりと散々な目にあいながらの行程でした。カイラス山は現在でもチベットの聖地ですが、この頃もたくさんの巡礼者がお参りに訪れていたようです。この辺りから、慧海は巡礼者や隊商の一行に加えてもらい、公の街道を東に向かい、ラサを目指します。同年12月にチベット第2の都市シカチェに着き、そこからラサに行く途中、ある村の大家で子供の病気を治したことから、ここ滞在し、越冬します。読経などをして過ごした後、翌年3月にこの村を出て、3月下旬にようやくラサに到着しました。

 

ラサでの慧海

 ラサに入った慧海は、西北のチベット人と偽ってセラ寺のセラ大学へ入学します。当時、セラ大学へは中国人やモンゴル人の僧侶もたくさん留学していたそうで、ネパールから中国人の僧侶と偽って入境して来た慧海ですが、中国人僧侶の学舎へ入るとそれがバレそうで、ラサへ来るまでさまよった西北高原のチベット人と偽ったようです。
 どこで学んだのか経歴からは分かりませんが、慧海には医学の心得があり、ラサへ入ると、たくさんの病人を直しました。迷信と原始的な医術しか知らないチベット人に対して、病気を診断し、薬を処方すると、信仰心のせいか不思議とよく直ったそうです。貧しい人から治療代をとらなかったため、やがて、セライ・アムチー(セラのお医者さん)としてラサ中の評判になります。それが法王の耳に入り、7月にノルブリンカ宮で法王に謁見します。この時の法王はダライ・ラマ13世で、まだ26歳でした。慧海の印象では、法王は仏道より、政治的能力に優れていたようです。これ以降、セラ寺では上等な部屋とお付きの僧侶が配されて、破格の扱いを受けるようになりました。
 また、これも医療が縁で、前大蔵大臣の知遇をえて、大臣家にも一室を与えられて、衣食住を提供されます。慧海の元には政府の高官や貴族を始め、さまざまな人が診療に訪れ、交際範囲が広がっていきます。それで、僧侶や一般の人が知らない様々な情報が集まることになりました。

 

チベットの風俗と社会

(僧侶と階級)

この時代のチベットは階級社会でした。大きく分けると、貴族、平民、賤民の3つに分かれます。奴隷もあったようですが、階級というより、借金がかさむと奴隷にされたようです。貴族は、高官、高僧、将軍、占い師や地方豪族達で、漁師、船頭、鍛冶屋、屠者は賤民とされ、他の階級との付き合いや僧侶になることも禁止されていました。
 チベット社会では僧侶は特別で、租税が免除され、社会から尊敬されたため、人数も多かったようで、ラサの大法会の時には、何万人もう僧侶が集まりました。僧侶は学僧と壮士坊主の2種類に分かれ、壮士坊主は寺の雑用掛かりですが、学僧は経典や経文を学び、がんばれば出世することができました。宗派は、慧海によれば、15世紀にツォンカバが創始したゲルク派を新教、それ以前のサキャ派やニンマ派等を旧教と呼んでいます。旧教は妻帯、肉食、飲酒等が自由で、一時期、放恣に流れたため、ツォンカバにより引き締められ、妻帯、肉食、飲酒等が禁止されました。ただ、現代でも旧教の僧侶は妻帯が許されているようです。慧海が留学した頃も新教が主流でしたが、僧侶社会も金銭が必要で、下層の僧侶はいろいろな商売をして金を稼ぎ、階層が上がるほど裕福になったようです。そして、おおっぴらでは無いにせよ、肉食や飲酒、また、男色も行われていたようです。
 この頃チベットでは化身が信じられており、高僧は死ぬと生まれ変わるので、生まれ変わった子供を探し、後継者として育てていました。生まれ変わりの子供を探すには、占い師のご託宣が大きく左右したようです。さすがにダライ・ラマやパンチェン・ラマの化身にはなかったようですが、貴族に抱き込まれた占い師のご託宣により、生まれ変わりの子供は全て貴族の子弟ということもあったようです。しかし、慧海によれば、選定された子供は大切にされ、英才教育を受けるため、りっぱな僧侶として育っていくようです。

(民衆と一妻多夫)

 慧海はチベットの民衆をこき下ろしています。チベットの民衆の欠点は、不潔、迷信深い、小利にさといことだそうです。不潔とは、トイレに行っても尻をふかない、また、福が落ちると言って、あまり体を洗わない、服を着替えないそうです。そして、何事を行うにも、僧侶や占い師に占ってもらうようで、病気になった時にも、まず占い師に相談して治療法や医者を選ぶようです。民衆は大局を見ることがなく、目先の金銭に弱いようです。そのため、賄賂を取ったり、金額の多い方へ流されることが多かったようです。このように慧海の指摘は厳しいのですが、その筆致はどことなく暖かさにあふれます。そして、チベットの民衆の利点は信仰心だそうです。「人間以外の実在物がおり、それとの交流が信仰だと固く信じている」ようです。
 チベットの風習を語る時、一妻多夫制が有名です。この時代の決まりとして、結婚は親が決めるようですが、よい家を選んで、盛大な結婚式をあげて、娘を嫁にやりますが、少し落ち着くと、その嫁はその家の夫の弟達とも内輪の結婚式をあげて、夫とするそうです。子供が生まれると、その子は兄の子として育てられます。また、多夫は兄弟に限らず、親子という例もあり、中には、妻が気のきいた男を引き連れて来て夫とすることもあるそうです。一妻多夫のせいか、家での妻の地位は強く、家計を握ったり、大事な時の決定権は妻が持っている家も多いようです。ただ、なぜチベットで一妻多夫なのか、その理由はわかりませんでした。女性が少なかったのでしょうか。


当時の政治状況

 慧海が滞在した20世紀初頭のチベットは清国の領土でした。ラサには清の駐蔵大臣がおり、清の兵隊も駐留していましたが、政治そのものは自治が認められており、比較的自由だったようです。この頃の清は末期を迎えており、日清戦争で敗北し、義和団事件で八カ国の連合軍に北京が占領されたりしていた頃でした。チベットでも清を少々見下し始めたようですが、一般の民衆は親近感を持っていたようです。
 ちょうどこの頃、チベットは新彊から南下するロシアと、インドを経営するイギリスとのせめぎ合いの板挟みでした。ロシアは法王の教師をした人物が暗躍して、様々な献上品や便宜をはかり、チベットの宰相とは兄弟のような関係になるほど食い込んでいたようです。それに対して、イギリスはだいぶ出遅れており、20年ほど前に起こった慧海の師のサラット・チャンドラ・ダースのスパイ事件や、シッキム地方の国境紛争などで、チベットはイギリスを最も恐れ警戒していました。そのため日英同盟を結んだ日本も警戒され、後に、慧海もイギリスのスパイと疑われたようです。

ラサを逃れる

 慧海のラサでの滞在はおよそ1年と2カ月で終止符が打たれることになります。慧海がダージリンにいたころ知り合った商人が、ラサの繁華街のパルコルで店を出しており、慧海を日本人と知る唯一のチベット人でした。その商人がひょんなことから、政府関係者に口を滑らせ、やがてそれが政府高官の耳に入りました。それを知った慧海は、支援者の前大蔵大臣達と相談の結果、ラサを去ることに決めます。幸い、ラサではパンチェン・ラマの成人の授戒式が行われるため、政府も役人もそれに忙殺されていました。慧海はさっそくこれまで集めた経典を隊商へ頼んでインドへ送り、自分は荷持ちを雇って、二人で1902年の5月の末にラサを発ちました。帰りの経路はチベット第3の都市ギャンツェからニャートンの関所を通って、インドのシッキムからダージリンへ抜ける最短コースでした。しかし、ニャートンの関所は5つの関門があり、そこを抜けるには、日ごろ行き来している隊商でも何日もかかるという厳しさでした。ただ、慧海はラサの医者として有名でしたので、法王の密命を帯びてインドへ使いすると脅して、即日通過することに成功しました。おかげで、ダージリンへは1ヶ月たらずで無事に到着することができました。

ネパール国王に謁見する

 ダージリンに着いた慧海はチャンドラ・ダースの元で落ち着きますが、夏のシッキムを歩いたせいで、マラリヤになり、1カ月ほど寝込みます。やがて回復した慧海の元にラサの様子が伝わるようになりました。やはり、慧海の件が疑獄事件として大きな問題になり、セラ大学は閉門、件の商人や関係者は捕えられ入牢、庇護者の前大蔵大臣も取り調べを受けているとのことでした。ダージリンで旧交を温めた日本人達は慧海をすぐ日本へ帰したがりましたが、慧海はこれを断り、ラサでの恩人や友人達の救援に奔走します。そして、最善の方法はネパール国王から慧海の陳情書を法王へ送ってもらうことだと判断し、再びネパールへ入ります。年が明けて1903年の始め、いろいろとツテを求めて、なんとかネパール国王に謁見することに成功します。始めは慧海のチベット行がイギリスや日本政府の命令ではと疑われましたが、3回も謁見を繰り返し、ようやく陳情書を送ることを快諾してもらえました。その後、慧海はカルカッタ、ボンベイを経て日本へ戻ります。日本の神戸へ着いたのは19035月でした。

最後に一言

 だいぶ長くなりましたが、以上が「チベット旅行記」の概要です。手に汗握る冒険談で、私は読んでいて、とても映画やテレビ向きではないかと思いました。チベットでの撮影がたいへんなせいか、まだ一度も映画化されたことがないようです。
  10月に行ったラサですが、ポタラ宮、ノルブリンカ宮、ジョカン寺、パルコル、そしてセラ寺等を思うと、およそ110年前に慧海が歩いたところがありありと浮かぶようです。慧海は旅行記の中で何回もチベットの自然の美しさを記述しています。慧海を魅了して止まなかったのはチベットの自然だったのかもしれません。まさに「人間聖地、天上西蔵」なのでしょう。