河口慧海とチベット 10月の国慶節にチベットを旅行しました。その余韻のせいか、チベットについてもっと知りたくなり、河口慧海の「チベット旅行記」を読み始めました。慧海は1回目のチベット旅行から戻ったあと、『西蔵旅行記』上下巻を明治37年(1904年)博文館より出版しています。その本が1978年に講談社より、新字新仮名に直され、『チベット旅行記』(一)〜(五)として出版されました。2007年現在で43刷を繰り返すほど評判の本のようです。幸い、これが底本となり、インターネットの青空文庫に掲載されました。また、アマゾンのキンドル本にもなり、無料で配布されています。私はそのキンドル本で読みました。読んで見ると、波乱万丈、まるで大冒険小説を読んでいるようで止められなくなり、最後まで読みつづけました。また、表記も平易で、明治に出版されたとは思えぬほど新鮮でした。慧海が苦労してネパールからチベットへ入り、ラサでチベット仏教を学び、再び、インドへと戻るまでが書かれていますが、その間、チベットで観察した、風俗や生活、社会や政治状況等も詳細に書かれ、当時、黎明期にあった民俗学や文化人類学の本としても優れたものだと驚かされます。チベットを知る上で、とても参考になりました。今回は、この本を紹介してみたいと思います。 チベットへ向かう 河口慧海は1866年堺市に生まれ、同志社や哲学館で学び、東京の五百羅漢寺の住職となりますが、やがて宇治の黄檗山へ移ります。そこで、素人にも分かりやすい経文を作りたいと思い立ちますが、漢訳の経典はたくさんあり、どれがよいかわからない。サンスクリット語の原典にあたりたいが、現在では失われています。ただ、小乗仏教の経典はセイロンに、大乗仏教の経典はチベットにそれぞれ翻訳されて残されており、当時の学界の定説では、チベット語の経典は逐語訳に近く、正確であると言われていました。それで、チベット語の経典を研究しようと決心し、1897年6月、32歳でチベットへ向かいます。 チベット潜入の経路をたどる 1900年の7月慧海は国境を越えてチベットへ入りました。それから東のラサに向かわず、逆の西にルートをとり、チベットの西北高原のマナサルワ湖やカイラス山へと迂回してラサを目指します。ちょうど、日本で言えば、神戸へ上陸して、九州へ向かい、桜島を回って、京都から東京を目指すようなものです。 ラサでの慧海 ラサに入った慧海は、西北のチベット人と偽ってセラ寺のセラ大学へ入学します。当時、セラ大学へは中国人やモンゴル人の僧侶もたくさん留学していたそうで、ネパールから中国人の僧侶と偽って入境して来た慧海ですが、中国人僧侶の学舎へ入るとそれがバレそうで、ラサへ来るまでさまよった西北高原のチベット人と偽ったようです。 チベットの風俗と社会 (僧侶と階級) この時代のチベットは階級社会でした。大きく分けると、貴族、平民、賤民の3つに分かれます。奴隷もあったようですが、階級というより、借金がかさむと奴隷にされたようです。貴族は、高官、高僧、将軍、占い師や地方豪族達で、漁師、船頭、鍛冶屋、屠者は賤民とされ、他の階級との付き合いや僧侶になることも禁止されていました。
(民衆と一妻多夫) 慧海はチベットの民衆をこき下ろしています。チベットの民衆の欠点は、不潔、迷信深い、小利にさといことだそうです。不潔とは、トイレに行っても尻をふかない、また、福が落ちると言って、あまり体を洗わない、服を着替えないそうです。そして、何事を行うにも、僧侶や占い師に占ってもらうようで、病気になった時にも、まず占い師に相談して治療法や医者を選ぶようです。民衆は大局を見ることがなく、目先の金銭に弱いようです。そのため、賄賂を取ったり、金額の多い方へ流されることが多かったようです。このように慧海の指摘は厳しいのですが、その筆致はどことなく暖かさにあふれます。そして、チベットの民衆の利点は信仰心だそうです。「人間以外の実在物がおり、それとの交流が信仰だと固く信じている」ようです。
慧海が滞在した20世紀初頭のチベットは清国の領土でした。ラサには清の駐蔵大臣がおり、清の兵隊も駐留していましたが、政治そのものは自治が認められており、比較的自由だったようです。この頃の清は末期を迎えており、日清戦争で敗北し、義和団事件で八カ国の連合軍に北京が占領されたりしていた頃でした。チベットでも清を少々見下し始めたようですが、一般の民衆は親近感を持っていたようです。 ラサを逃れる 慧海のラサでの滞在はおよそ1年と2カ月で終止符が打たれることになります。慧海がダージリンにいたころ知り合った商人が、ラサの繁華街のパルコルで店を出しており、慧海を日本人と知る唯一のチベット人でした。その商人がひょんなことから、政府関係者に口を滑らせ、やがてそれが政府高官の耳に入りました。それを知った慧海は、支援者の前大蔵大臣達と相談の結果、ラサを去ることに決めます。幸い、ラサではパンチェン・ラマの成人の授戒式が行われるため、政府も役人もそれに忙殺されていました。慧海はさっそくこれまで集めた経典を隊商へ頼んでインドへ送り、自分は荷持ちを雇って、二人で1902年の5月の末にラサを発ちました。帰りの経路はチベット第3の都市ギャンツェからニャートンの関所を通って、インドのシッキムからダージリンへ抜ける最短コースでした。しかし、ニャートンの関所は5つの関門があり、そこを抜けるには、日ごろ行き来している隊商でも何日もかかるという厳しさでした。ただ、慧海はラサの医者として有名でしたので、法王の密命を帯びてインドへ使いすると脅して、即日通過することに成功しました。おかげで、ダージリンへは1ヶ月たらずで無事に到着することができました。 ネパール国王に謁見する ダージリンに着いた慧海はチャンドラ・ダースの元で落ち着きますが、夏のシッキムを歩いたせいで、マラリヤになり、1カ月ほど寝込みます。やがて回復した慧海の元にラサの様子が伝わるようになりました。やはり、慧海の件が疑獄事件として大きな問題になり、セラ大学は閉門、件の商人や関係者は捕えられ入牢、庇護者の前大蔵大臣も取り調べを受けているとのことでした。ダージリンで旧交を温めた日本人達は慧海をすぐ日本へ帰したがりましたが、慧海はこれを断り、ラサでの恩人や友人達の救援に奔走します。そして、最善の方法はネパール国王から慧海の陳情書を法王へ送ってもらうことだと判断し、再びネパールへ入ります。年が明けて1903年の始め、いろいろとツテを求めて、なんとかネパール国王に謁見することに成功します。始めは慧海のチベット行がイギリスや日本政府の命令ではと疑われましたが、3回も謁見を繰り返し、ようやく陳情書を送ることを快諾してもらえました。その後、慧海はカルカッタ、ボンベイを経て日本へ戻ります。日本の神戸へ着いたのは1903年5月でした。 最後に一言 だいぶ長くなりましたが、以上が「チベット旅行記」の概要です。手に汗握る冒険談で、私は読んでいて、とても映画やテレビ向きではないかと思いました。チベットでの撮影がたいへんなせいか、まだ一度も映画化されたことがないようです。
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