立てば芍薬座れば牡丹
4月は寒さに震えましたが、5月も相変わらずでした。昼間は汗ばんでも、朝晩は冷え込み、たくさん着込んで暖を取りました。それが、最近急に暑くなり、いきなり夏日になりました。セーターから一気に半袖シャツへと春物を通り越した衣替えで慌てました。キャンパスでは女子学生たちは短パンで闊歩するようになりました。
5月の初旬は牡丹と黄色いバラが楽しませてくれました。教学棟の北側にある将軍院という庭園と、図書館の西側の草地に牡丹が植えられており、白、ピンク、濃いピンクの大輪の花を咲かせていました。また、黄バラはやや小さめの花びらを大きな灌木に枝いっぱい咲かせます。宿舎の入口にこの黄バラの灌木が二株あり、まさに萌え盛りました。黄バラの花ビラは一重と八重の2種類で、キャンパスの東側の広々とした草地にもたくさんあり、まるで草地を黄色い垣根で囲んだようで、なかなか華やかでした。
中旬を過ぎると、牡丹や黄バラも終わり、刺槐(ニセアカシア)や花槐が咲き始め、6月に入るとニワナナカマドが白い小さな花を咲かせています。ところが、将軍院や図書館の西の草地では、また牡丹が咲き始めました。始めは、咲き遅れた牡丹かと思いましたが、よく見ると芍薬でした。本で読むと、芍薬の方が開花時期は早いようですが、楡中では牡丹が終わってから咲き始めました。花の形や色は牡丹とほとんど同じですが、その違いは葉の形にありました。牡丹は一枚の葉が三又に分かれているのに対し、芍薬の葉は厚めの眉形です。また、牡丹は木本植物、芍薬は草本植物ですので、茎を見ると牡丹は灌木で、もっこりと咲くのに対して、芍薬の方は草の茎がすっと伸びて咲きます。牡丹の方が一重の花びらが多く、大きさも大きいような気がします。牡丹の豪華絢爛に対して、芍薬は絢爛華麗といった感じで、鼻を近づけると微かな芳香が漂います。それにしても、楡中で4年目の春を迎えましたが、これまで迂闊にも芍薬を見逃して来ました。今年は開花がはっきりと別れたために気が付いたのでしょう。
学生川柳その2
卒業論文の答弁が5月17日の土曜日に行われました。答弁は3グループに分かれて行われ、1グループ当り12〜13人が答弁を行います。今回、私は3名の学生を指導しました。内容は日本のごみ処理、環境保護、ドメスティック・バイオレンスの三編でした。何とか書かせましたが、いずれも解説書的になってしまったのが残念でした。ただ、おもしろかったのは、今学期から書きあげた論文を大学指定のソフトで精査する規則ができたことです。精査して、他の文献や論文との重複率が30%を超えると、提出できないそうです。小保方さんではありませんが、インターネット時代でコピペが気軽にできる対抗策なのでしょう。ただ、中国製のソフトで、日本語の論文の精査ができるのでしょうか。不思議です。
ところで、今学期も2年生の作文を担当しています。卒論演習を意識して、感想文や随筆ではなく、小論を書かせています。学生たちは自分の意見を論理的に説明することが苦手で、資料の説明文や解説書のような作文になりがちです。中学、高校を通じて、模範文に倣うことが多く、自分の意見を展開することがうまくできません。何回も書き直しをさせることになり、お互いに大変です。それで、息抜きを兼ねて、俳句と川柳を教えました。
意外にも、学生たちは日本語を上手に五七五にまとめ、なんとか俳句や川柳らしきものを作りました。ただ、俳句より川柳の方がうまい作品が多く出てきました。俳句は季語が必要で、学生たちにとってはこの季語が鬼門です。受験に明け暮れた学生たちは自然の風物に疎く、具体的な語句を知りません。季語はいつも春の花、春の風、春の雨になってしまいます。季語の無い川柳の方が作り易いのでしょう。以前にも学生の川柳を紹介したことがありますが、今回はその2としてご紹介します。
朝起きて 心に誓う 朝寝坊
点数に 決定される 私たち
牛肉が 全然見えぬ 牛肉面
一日で 四季が過ごせる 楡中だけ
人生は 一回きりの 生放送
フィリピンの 「俺の南海」 でたらめだ
食堂の 料理にルーペで 肉探し
並んでる 長く待たせる 女子トイレ
蘭州で 水は飲めない ベンゼンだ
消灯後 あちこち光る 各世界
「安全だ」 と言った役人 水飲まず
何事も 自己中心の 一人っ子
食事あと ダイエットって 思いだす
いかがでしょうか。学生たちの本音と生活を垣間見るような気がします。
隴南へ行く
少し前の話しですが、4月末に外国人専家旅行で隴南へ行きました。専家とは専門家、技術者のことで、毎年、蘭州市の専家局が蘭州で働く外国人技術者を慰労のために甘粛省のあちこちへ旅行に連れて行ってくれます。メンバーは大学や専門学校の外国人教師が多く、企業や研究所の外国人はあまり多くありませんでした。今年は3年以上の勤務者と参加者を絞り込み、経費を節約して、隴南市成県への旅行となりました。
ところで、甘粛省は鉄アレイを東西に置いたような形をしています。西側の円型部分は敦煌などがある砂漠地帯で、面積はおよそ日本の半分ほどあります。東側の円型部分に蘭州があり、円型部と円型部をむすぶシャフトの部分を河西回廊といい、蘭州から敦煌までおよそ1000kmの距離があります。河西回廊の南側は青海省の祁連山脈が連なり、北側は内モンゴルの砂漠地帯になります。河西回廊は祁連山脈から流れる水により、武威、張掖、酒泉などの肥沃なオアシス都市が続きますが、それ以外は平坦な荒野が広がります。蘭州は東側の円型部分のやや北側にあり、この円型部分は北部の黄土高原、東南部の秦巴山地、西南部のチベット高原に三分されます。それぞれ気候風土も異なり、北部は黄河と黄土の乾燥地帯、東南部の秦巴山地は森林地帯、西南部は高度3000m以上の高原が四川省の北部、青海省の南部からチベットへと連なっていきます。民族的にも、北部はモンゴル族や回族、東南部は漢族、西南部はチベット族と多様です。行政区からみると、北部は蘭州市、定西市など、東南部は天水市、隴南市、西南部は臨夏回族自治州、甘南チベット族自治州になります。
今回の旅行は参加者を絞ったため、バス1台になりました。隴南まで500kmの距離があり、朝7時半に蘭州を出発しました。まず350km離れた天水をめざして、高速道路をひたすら東南へ下ります。バスは黄土高原の谷間をぬって走りますが、天水に近づくにつれ、次第に緑が多くなります。まわりの丘陵にも樹木が目立ち始めます。天水は緑が多く、地味も豊かで、小江南と言われる甘粛省第2の都市です。ここから東へ300kmほど行った所に西安があります。昔は西安を発った旅人たちはまず天水を目指し、天水から北に進みシルクロードへ向かう者と、南へ下って隴南を抜けて四川省へ向かう者とに別れました。8世紀中ほど、唐の詩人杜甫は長安(西安)を見限って、家族とともに当時秦州と言われた天水へ落ち延びてきましたが、困窮の果て住み付けず、隴南から成都へ向かいます。今回、我々も天水で高速を降りて、隴南へ向かいました。
現在の隴南市は1区8県からなり、人口は280万人、面積は2.7万平方kmで、日本の福島県の倍ほどです。夕方4時ごろ市の北にある成県に到着し、隴南師範専門学校(短大)を見学してから、ホテルへ向かいました。専門学校には英語の教師として欧米人が3名いましたが、よく赴任したのもだと感心しました。この近辺では大きな飛行場は蘭州と西安にしかなく、そこから長距離バスで丸1日かかります。翌日は午前中、宋や明代の石刻がある西狭頌森林公園をハイキングし、午後からは徽県にある酒造会社を見学しました。西狭頌では渓谷にある桟道を散策しましたが、ところどころで水しぶきをあげて滝が流れ、乾燥地帯に慣れた身には驚かされました。酒造会社は金徽といい、甘粛省では大きな会社の一つで、私も普段ここの白酒をよく飲んでいます。広い敷地に近代的な工場があり、係員の案内で見学しました。途中、甕に寝かせた10年ものの原酒、今年の新酒、そして、最後は40年ものの古酒を試飲させてもらい、楽しめました。隴南は水が豊富で、品質も良いので、良い酒ができるとのことですが、興味深かったのは、ここは黄河ではなく、揚子江水系だそうです。
翌日は8時半にホテルを出て、蘭州へと戻りました。行き帰りの時間が長く、あまり観光時間がありませんでしたが、改めて、甘粛省の大きさと、地勢の複雑さを感じさせられました。隴南は北に黄土高原、西にチベット高原、そして、東と南が陝西省、四川省に挟まれた秦巴山地ですが、緑が豊富で、丘陵にはたくさんの樹木が茂っていたのが印象的でした。そのうち機会があれば、杜甫の道をたどって隴南から四川省へ抜けてみたいものです。
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