蘭州近況その28 (2013年12月〜2014年1月)


2014年、楡中の年明け

 今年も静かに元旦を迎えました。もっともキャンパスはまだ学期中で、普段と変わりません。大晦日の夜も学生たちが時折花火をあげる程度でした。また、年末に習近平政権がフカヒレなど高級食材を使った役人の宴会を禁止したせいか、派手な忘年会や新年会も行われず、いつもより静かな年末でした。そのため、恒例の日本語科の忘年会も会費制となりました。しかし、123人の日本語科の先生たち皆で回族の高級レストランでさまざまな料理をたらふく食べても、酒を別にすれば、一人100元もいきません。中華料理は数人以上で食べるととても食べ出があります。

 今年は元旦に楡中を出て、蘭州の名所の一つ白塔寺へ行ってみました。黄河に架かった中山橋を渡り、白塔山へ登りましたが、中国の正月は旧暦ですので、特別な賑わいもありませんでした。黄河は凍ってはおらず、黄褐色ではなく少し蒼みがかった水が流れていました。白塔寺の展望台から黄河と蘭州の繁華街を一望すると、やや霞みがかかり、はっきりとは見えませんでした。後で調べると、久しぶりにPM2.5は中度から重度汚染のレベルでした。このところよく晴れた日が続き、北京や南京などのように濃霧に悩まされることもありませんでしたが、この日は少し霧が出たようです。蘭大の4年生は楡中キャンパスを出て、蘭州の本部キャンパスに移ります。白塔山の帰りに、今期卒論を指導する3人の学生を呼び出し、キャンパスのレストランでささやかな新年会を行いました。

 さて、今年の年末年始は日本のテレビを見て過ごしました。学生からパソコンで日本のテレビを見る方法を調べさせると、中国や日本のテレビが見れるインターネットサイトを教えてくれました。おかげで、31日にはNHKの紅白歌合戦、2日と3日には日テレの箱根駅伝を楽しむことができました。インターネットですので、ネットが混んだりすると時折だんまりになりますが、気にしなければ日本でテレビを見ているのとあまり変わりませんでした。便利になったものです。これで学生たちは日本や韓国のテレビドラマを自由に見ることができるわけです。

 例年、元旦から三が日は休日でしたが、今年は休日の規定が変わりました。休日は元旦のみで、2日、3日は通常の勤務日となりました。もっとも例年も2日と3日の分は振替え休日ですので実質はあまり変わりません。おかげで、31日と2日に今学期最後の授業を行いました。また、今年の中国の春節休暇は元旦にあたる131日から26日までの7連休になります。ただこのうち2日は振替え休日ですので、実質は5日です。例年は大晦日から7日間ですが、今年は大晦日(130日)が出勤日となりました。中国の大晦日は朝早くから掃除や料理の準備でたいへんです。夜には一族そろって「年夜飯」というごちそうを食べる習慣がありますので、大晦日が出勤日で大丈夫なのかといらぬ心配をしています。

 最近は穏やかな日が続きます。それでも、気温は−140℃と冷え込んでいます。これまで雪が4回降りましたので例年より寒いのではないでしょうか。ただ、雪は積もらず、乾燥気候のせいか、−14℃といっても思ったより寒くありません。しかし、PM2.5のせいか分かりませんが、最近、スチーム暖房の温度が弱くなり、夜は部屋で震えています。

 

安倍首相の靖国参拝

 1226日の午前中、授業の準備をしていると、インターネットで安倍首相が靖国神社へ参拝したというニュースが流れました。それとほとんど同時に中国の日本大使館からメールが届きました。タイトルは「最近の日中関係の動きに係る注意喚起」とありました。開いてみると、「当地報道では既に種々厳しい対日論調が示されており・・」とあり、要は安倍首相が靖国参拝をしたので、在中国邦人はあまり出歩かず、言動や挙動に注意することと書かれていました。参拝のニュースから時を移さずでしたので、参拝に合わせてメールの準備がなされていたのかもしれません。これを読んで残念でなりませんでした。

 靖国参拝の是非は置いておくとして、なぜこの時期なのでしょう。中国は防空識別圏の勇み足で、周辺諸国から一斉にブーイングを受けています。また、韓国は朴大統領の行動が「告げ口外交」と揶揄され、狼少年状態にありました。この状況で年を越せばきっと日本に有利な展開が開けると思っていた最中でした。これを聞いて、中国当局者は「しめた」と叫び、朴大統領は小躍りしたのではないでしょうか。これまで中国や韓国は日本が問題となる行動を取るからだと主張してきましたが、まさにそのとおりと取られかねないことになりました。海外論調でも、ウォールストリート・ジャーナルは「中国への贈り物」と表現し、オーストリラリアの有力紙は「日本のオウンゴール」と書いています。状況が良かっただけに残念です。もっとも当然こうした外交状況は首相周辺でも百も承知のことでしたでしょう。それを承知の上で、首相は参拝を行ったことと思います。あえて参拝を選んだ首相の真意がよく分かりません。

 26日はちょうど毛沢東の生誕120周年の記念日でした。翌27日のCCTVのニュースではまずこのニュースが流され、習近平以下7名の常務委員が北京の毛沢東記念堂で献花している模様が映されていました。靖国参拝のニュースはその次となりました。しかし、それから毎日CCTVでは関連ニュースを流しています。2日には元旦の閣僚の参拝を伝え、また3日には山口公明党代表の参拝反対のスピーチが放映されました。ただ、幸いなことに、一昨年のようなデモ騒ぎはまだありません。街頭を歩いていても普段と変わりませんし、北京や上海でも特別な動きはないようです。それでも、ここ当分、中国や韓国との首脳会談が行われることはないでしょう。

 

『中国の西北角』を読む

 この夏、南京で教師をされていたH先生から1冊の本をいただきました。『中国の西北角』範長江著、松枝茂夫訳、筑摩叢書1983年がそれです。(角:コーナー、地域)読み終わって、まさに奇書だと思いました。内容は、範長江が1935年に10ヶ月かけて探索した中国西北地域の紀行文です。長江は1935年の7月に四川省の成都から今の九寨溝の辺りを抜けて、甘粛省の岷県、臨潭県、夏河、臨夏から蘭州へ。また、次は天水から西安へ戻り、慶陽、平涼を経て蘭州、3回目は蘭州から青海省の西寧、祁連山から張掖、酒泉、嘉峪関を経て敦煌、4回目は敦煌から玉門、酒泉、張掖、武威と河西回廊を通り、蘭州へ。5回目は蘭州から寧夏省の中衛、銀川、内蒙古省の包頭へ。都合5回の旅行というより、自動車や馬や徒歩で行った探検が書かれています。これらの地域は私が蘭州へ来てからこつこつ旅行した地域とほぼ重なります。時期は、1931年9月に満州事変が起こり、日中戦争へと向かう時であり、また、このころ蒋介石に追われた毛沢東や周恩来の共産党軍が長征を行い、四川省から甘粛省、陝西省へ逃れた時期に当たります。

 内容は一言で言えばすさまじいに尽きました。軍閥間の戦闘や共産党軍との戦闘で、食料の輸送が止まり、その日暮らしの貧窮者がどんどん餓死し、街道にはその死体が放置されています。この時期、西北地域の主要農産物は阿片でした。食料は他地域からの運送に頼っていたのですが、戦乱で運送が途絶え、あるいは、食料が高騰し、それを買えない貧窮者は餓死するしかなかったようです。農村も似たり寄ったりで、地方政府や軍隊からなんだかんだと増税され、農民たちは已むに已まれず高利貸しから借金をして、借財がかさみ、それに絶望して阿片に溺れるといった悪循環で、以前は何十戸もあった村落も一つまたひとつと農家が減っていきます。酒泉や張掖と言った大きな街では、街中にボロをまとった浮浪者で溢れていたようです。

 また、西北地域はチベット族、蒙古族、回族、漢族の四民族がせめぎ合う場所でもあります。大勢は、遊牧を主とするチベット族や蒙古族が定住をする漢族や回族に追われるという状況でしたが、食料に関しては自給自足で暮すチベット族や蒙古族にはあまり問題がなかったようです。回族はモスクを中心とした団結が強く、商売の資金や食料などもお互いに融通し合い、また、阿片の習慣も無かったため、次第に勢力を伸ばしているようでした。阿片の習慣がある漢族はどうも陰惨を極めたようです。

 これを書いた範長江は気鋭のジャーナリストで、当時26歳でした。最初は新聞に連載され、1936年に本として出版されると、たちまち版を重ねたようです。荒廃した西北地域の様子がたくさんの中国人の胸を打ったからでしょう。この本が書かれたのはたかだか今から80年前のことに過ぎません。現在の西北地域の繁栄を思うと隔世の感を抱かざるを得ません。当時の西北地域は阿片の一大産地だったようです。それが現在では一掃されているのは驚くべきことです。

 もう一つ意を強くしたことがあります。中国でよく放映される反日映画では、平和で豊かな村に日本軍が攻めてきて、村を破壊し、荒廃させます。そのため、抗日運動が起こり、革命が起こったという筋書きになります。日本軍が進攻し、侵略したことは確かに誉められたことではありませんが、ただ、中国の農村が疲弊したのは日本の侵攻のためだけではないでしょう。この本で書かれた農村の状況は、程度は別にしても、当時の中国で一般的な状況だったのではないでしょうか。各種軍閥が割拠し、騒乱が頻発していました。そのため地方政府は増税を繰り返します。また、中国全土の農村では多くの土匪が出没し、農民を悩ませていたようです。日本の侵攻以前に、中国の各地で革命の下地ができていたとつくづく感じました。

 なお、範長江は1939年に共産党へ入党し、『人民日報』の責任者などを歴任しましたが、文化革命で批判され、1970年に亡くなりました。土匪についてあまり書けませんでしたが、『中国革命を駆け抜けたアウトローたち −土匪と流氓の世界』福本勝清、中公新書に詳しいです。