杏と梨の花 今年は2月、3月と暖かかったので、いつもより2週間ほど早く花が咲き始めました。一番早く咲いたのは名前のごとく迎春花でした。北側の男子寮の前に数株の迎春花があり、3月の10日過ぎに黄色い可憐な花が一つ二つ咲きだして、14日あたりには枝いっぱいに咲きました。その後は、梅、杏、連翹と続きました。宿舎の西側に小さな梅の木があり、薄いピンクの花が咲きました。同じ頃、北側の石炭置場の前にキャンパスで一番早く咲く杏の木があるので、行ってみると、既につぼみが膨らみ始め、何輪か咲き始めていました。25日を過ぎると、将軍院の庭園にある大きな杏の木がいっぱいに薄いピンクの花を咲かせていました。杏と梅は花びらの色や形がよく似ています。杏は萼が濃い赤茶色で、花が咲くと萼が反り返るので、そこを見ると区別が付きます。満開の木を見ると、杏は少し赤味を帯びているように見えます。
杏の次は、灌木系のライラックと楡葉梅(オヒョウモモ)が咲き始めました。ライラックは紫と白い花の2種類あり、近くに行くと甘い香りが漂います。楡葉梅は枝いっぱいに濃いピンクの花が付き、華やかです。同じ頃、梨とリンゴ、また李の花が咲き始めました。楡中ではリンゴの木が少なく、ほとんどが梨だと分かりました。大きな梨の木が満開になると、白い凛とした艶やかさが見事です。キャンパスの外の農園では梨とリンゴの果樹園が多く、4月の半ば頃満開になり、辺り一面に白い花が咲き乱れ、見事な景色でした。楡中の農村は、始めは淡いピンクの杏が咲き誇り、杏の里といった趣がありましたが、杏が終わると梨とリンゴの白い花が咲き誇り、今度は梨の里といった風情になります。短い間に2回も楽しめて、なんとも贅沢な季節です。
4月の末の現在は、灌木系の黄色いバラが咲き誇っています。これも枝いっぱいに花が連なり、見事に萌えています。また、将軍院では牡丹が咲き始めました。中国北西部の寒冷地では、短い春を競うように次々と花が咲くので、4月、5月は心が浮き立つような気分になります。毎日カメラを持って散歩に出かけては、シャッターを押しています。
イスラム教について
蘭州にはイスラム寺院が多く、街を歩いていても、スカーフを被った女性をよく見かけます。年初に甘南チベット族自治州行った時には、途中で臨夏回族自治州に入ると、たくさんのりっぱなイスラム寺院に目をみはりました。また、甘粛省の北側は寧夏省(寧夏回族自治区)で、回族の本拠地です。そんな環境から、イスラム教がどんなものなのか知りたいと思っていました。手頃な本を探していると、良い本に巡り合いました。『イスラーム文化―その根底にあるもの』井筒俊彦、岩波文庫です。井筒はもう故人ですが、慶応大学の出身で、イラン王立研究所に教授として迎えられた世界的なイスラム学者だそうです。語学の天才で、30ヶ国語を理解し、『コーラン』を原典から全訳した初の翻訳者でもあるようです。以下、この本から理解したイスラム教を紹介してみたいと思います。
イスラム教の神はアラーといい、アラーは“The God”という意味だそうですが、唯一絶対の人格神だそうです。この神はユダヤ教、キリスト教と同じ神であり、これまで何人かの預言者を通じて、神の教えを人間に伝えてきました。モーゼ、イエスも預言者であり、アラビアにはムハンマド(モハメット)が人類最後の預言者として遣わされました。ムハンマドが伝えた神の言葉は全て『コーラン』に記されています。しかし、神は同じでも、キリスト教などとは異なり、イスラム教は宗教生活と実生活−聖俗の区別がありません。イスラム教徒は『コーラン』に従って生活を送ります。即ち、宗教と政治が分かれたり、僧侶のような聖職者はおりません。『コーラン』には、神への祈り方から、生活の仕方まで全て書かれているそうです。さらに、実生活の細々とした規定は『コーラン』とムハンマドの言行録である「ハディース」を元にしたイスラム法で定められています。ですからイスラム教徒は全てイスラム法に従って生活することになります。
井筒は、イスラム教の流れをスンニー派、シーア派、イスラム神秘主義者(スーフィー)の三つで説明します。多数を占めるスンニー派は、『コーラン』の自由解釈を禁じ、既に確立されたイスラム法を遵守して生きることで、この世界を少しでも神の国へ近づけるように努めます。シーア派は『コーラン』に秘められた神の啓示を求めます。もちろん、啓示が分かるのは学識豊かで、鋭い霊感を備えた人たちですから、そうした人たちの指導のもとで、その時代その時代に下される神の啓示に従おうとします。スンニー派はシーア派を『コーラン』を勝手に解釈する異端者として、シーア派はスンニー派を神の啓示を見ない形式主義者として、お互いを攻撃し、長い間対立してきたようです。三つ目のスーフィーは、清貧な厳しい修行を通じて、自我を無くすことで神との一体化を求める人たちのことを言います。なんとなく、我欲を捨てることで悟りに至る仏教の修行僧のイメージと重なりますが、隠者や修行僧が認められないイスラム教でもこうした系譜があるようです。
井筒のこの本は、1972年のイラン革命の後で井筒が行った講演をまとめたものでしたが、難解なイスラム教を平易な言葉で解説しており、あまり苦労せずに読むことができました。私たちの目には何となくイスラムの人たちの生活が頑なに見えますが、それはイスラムに聖俗の区別がないため、人々の生活が宗教と切り離せないからなのでしょう。また、政治的な対立にしても、宗教的な対立へ進みがちなために、安易な妥協は許されないのではないでしょうか。縁の無い回回帽を被った回族の人たちが少しは身近になったような気がします。
再び張掖へ
毎年恒例の甘粛省外事局による外国人教師ツアーに参加しました。今年の行き先は張掖で、4月24日から3泊4日の行程ですが、出発が早いため、前日に蘭州へ出て泊まり、4泊5日の旅行となりました。張掖へは2011年の夏、河西回廊の旅で一度訪れました。張掖は蘭州からおよそ520km、蘭州から敦煌へ向かう河西回廊のほぼ真ん中の位置にあり、バスで7,8時間かかります。今回は行程が長いせいか、参加者は40数名とやや少なく、日本人教師は蘭大を含めて7名でした。8時20分に出発したバスは高速を北へ進み、蘭州の永登県を抜けると、武威市の天祝チベット族自治県に入ります。天祝は海抜2500〜2600mの高地にあり、広々とした高原が続きますが、まだ草原は褐色であざやかな緑は見られませんでした。高原の端まで走ると、峻烈な祁連山系が現れ、有名な烏鞘嶺(うすいれい)を越えると武威市への緩やかな下り道になります。武威で昼食を取り、再び高速へ乗って張掖へ向かいました。武威から張掖市の山丹県にはいると、辺りはなだらかな山間部となり、再び草原地帯に入ります。高速の脇には明代に造られた長城の土塁が延々と続きます。張掖には18時頃到着しました。
張掖市は人口131万人の河西回廊の中核都市で、古くから「不望祁連山頂雪,錯将張掖当江南」、雪を頂く祁連山が無ければ江南と見まごうと言われる程地味豊な土地と言われます。張掖の名前は漢代に「張国臂掖,以通西域」、腕を伸ばせば西域に通じるから名付けられました。街の中心には鎮遠楼という鼓楼があり、その四方に1kmほどの繁華街が広がっています。
翌日はまず市内観光で、11世紀の末に西夏王国が建てた大仏寺を見学しました。大仏寺は前回も行きましたが、34.5mの涅槃大仏があり、元代にマルコ・ポーロが訪れたことでも有名です。次に、北の郊外にある国家湿地公園へ案内されました。シルクロードの中に4.2平方kmの湿地帯があるのには驚きましたが、まだ時期が早いせいか褐色の湿原でした。午後は、モデル農園に寄った後、南の郊外にある砂漠体育公園へ行きました。意外なことに、砂漠はゴビ砂漠のような砂礫ではなく、タクラマカン砂漠のようなさらさらした砂で、南北11.4km、東西4.3kmに渡って続いているそうです。砂漠体験ツアーと称して、30分程ガイドの案内で、砂漠を歩きました。
3日目は、粛南裕固族(ユグル、またはユウグー)自治県にある裕固民族村とその手前にある臨沢県の丹霞地質公園を巡りました。裕固族はモンゴルから南下してきたウイグル族の末裔で、裕固語を話し、宗教はチベット仏教だそうです。現在では中国全土でも13,719人しかおらず、しかも張掖市にその90%以上が生活しているようです。粛南裕固族自治県は、張掖市の南西、祁連山脈の北麓にあり、面積は20,456平方kmで、張掖市の面積の約半分を占めますが、大半が山間か高原で、人口は4万人に満たないようです。因みに自治県の面積は神奈川県の約8.5倍になります。裕固族は9世紀頃に甘州ウイグル汗国を築き、栄えましたが、11世紀に興隆してきた西夏王国に征服されました。現在、住民の大半は高原での牧畜業で生活しているそうです。険しい岩肌の山間をバスで登って行くと、山頂は広々とした高原で、羊やヤクがゆったりと草を食んでいて、また、南の遠方には雪を頂いた祁連山脈が連なっており、すばらしい景観を満喫できました。昼食は麓のホテルで民族歌謡ショーを見ながら食べました。民族衣装から見ると、ウイグルというよりは、モンゴルの衣装と同じような感じがしました。
裕固民族村の帰りに、丹霞地質公園に寄りました。濃い赤茶色から薄い黄色まで様々な色合いの岩盤や砂礫が層をなしている地形を丹霞(たんか)と言うようです。丹霞は甘粛省に多く、また、中国の他の省でも見られるようですが、張掖のこの公園が最も大きなものだそうです。赤茶けたごつごつと続く岩肌を見ていると、太古の恐竜の世界へ迷い込んだような錯覚にとらわれます。前回学生たちと見て回った時に、何層にも続く赤い岩山の先はどうなっているのか興味がわきましたが、今回の旅行で、岩山の先は裕固族の高原に続いていることがよく分りました。
4日目は初日と同じようにひたすらバスに乗って、蘭州へ戻りました。張掖は2年前にも学生たちと来ましたが、再び来てみると、街の様子がよく分ります。また、広い中国では団体のバス旅行があちこち移動するのに便利です。おかげで前回行かれなかった裕固民族村も見ることが出来ました。蘭州の周りは黄土高原に囲まれていますが、烏鞘嶺を越えて河西回廊へ入ると緑の草原が広がります。ただ、今回は4月の下旬でしたが、草原はまだ褐色で、若葉が萌える季節とはいかなかったのが残念でした。草原の春は遅いようです。次回はさらに遠い酒泉や敦煌にもバスで旅をしてみたいものです。
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