新学期あれこれ 2012年の後期学期が始まって1か月が経ちました。今期は2月19日に楡中へ戻りました。幸い、部屋の中は思ったよりきれいで、ホコリやチリも少なめでした。早速、電気のブレーカーを入れて部屋をチェックすると水道の水が出ません。保守員を呼んで見てもらうと、冬休みで水道管が凍っているのでそのうち出るだろうといういい加減な回答でした。氷がとけるといっても朝晩はまだマイナス10℃前後で、はたしてとけるのでしょうか。翌日、昼過ぎになっても相変わらず水が出ないので、また保守員を呼んで大騒ぎをすると、どうも水が出ないのは私の部屋だけではなく、他の建物でも水が出ないところがあるようで、原因は他にあったようです。保守員達が宿舎の裏のマンホールを開けて作業を始めると、しばらくして勢いよく水が出てきました。一時は、気温が暖かくなるまで水が使えないのかと暗澹とした気分でしたが、意外にすぐ解決してホッとしました。 今学期も担当は1年生から3年生の5科目ですが、2年生の作文を除いて、あとは、会話ではなく、1年生は汎読、3年生は聴解と科目がいきなり変わりました。事前の相談や連絡は一切ありません。教科書もなく、問い合わせれば、適当な資料を配布してくださいとの回答です。やむなく汎読ではインターネットから詩や小説をダウンロードしたり、聴解でもNHKラジオニュースや小説の朗読をダウンロードしたりして、毎回の授業をやりくりすることに決めました。そのため、授業をする度に教材を用意しなければならず、いささか面倒になりました。外籍教師は、授業内容はお任せで、何をやっても構わないというのは気楽でよいのですが、反面、その都度内容を検討しなければならず、厄介です。 2月、3月の楡中の気温は昨年より寒いようです。先学期の12月、1月は晴天が続き、あまり雪が降りませんでしたが、今学期はすでに3回積雪がありました。もっとも積雪といっても2,3cm積もるだけで、また、気温が低い割には、陽が出るとあっという間にとけてしまいます。日射しが強いためか、乾燥しているためか分かりませんが、いつまでも道がぬかるんだり、凍りつくこともなく、あまり苦になりません。2月の気温は-10〜5℃前後でしたが、3月の10日を過ぎたあたりから10℃を超えるようになり、暖かくなりました。楡中の農村では、そこここで馬や農機具で凍てついた田畑を掘り返し、種まきの準備が始まりました。花が咲くまでもうそろそろといった気配です。ただ、今年は昨年より部屋の暖房の温度が低く、これまで寒くて困りました。先学期の方が最低気温は低かったのですが、部屋の中は暖かく快適でした。外事の担当者に寒いと文句を言いましたが、暖房には異常が無いので、あまり取り合ってはもらえません。そんな訳で早く春になるのを待ち望んでいます。 ターミナル・ケアと朱子学 先週、同僚のN先生の先輩で東北大学の研究員のH先生が来蘭され、「日本思想史からみた現代日本の介護と看取り」という題名で講演がありました。対象が日本語科の学生だったため、また、時間も短かったため、あまり細かく思想史の部分には入れませんでしたが、それでも刺激的なテーマの講演でした。統計を取ると、日本は自宅より病院で死を迎える比率が諸外国よりとても高いようです。ただ、自宅での静かな臨終を希望する人は多いようです。思想史的にみると、日本人の死生観は17世紀の江戸時代に朱子学の影響で変化したそうです。朱子学により、現世をどう生きるかが重視されたため、「彼岸世界がリアルに語られることがなくなり、死や死後について明確なイメージが失われた」そうです。そのため、死を意識したり、死を迎える時に、少なからぬ困惑や苦悩があるようです。 中国の儒教は朱子学により別のものになった観があります。儒教は孔子以前から存在し、儒者といえば先祖崇拝の儀礼を司る人であり、極論すれば、葬儀を取り仕切る人のことを言いました。それが、朱子により宗教的部分が取り去られ、儒学としての側面が強調されました。朱子によれば、世界は理と気の二つにより構成され、人間の個性は気の働きによるいわれます。人間が死ぬとこの気が四散し、本質的な理の部分は大宇宙の法則ともいわれる理と一体化されます。即ち、人間の死後、個性は無くなり、魂は宇宙なり自然なりに溶け込んで一体化するといったイメージでしょう。この考えは、熱心な宗教者は別として、表現は異なっても、現代の多くの日本人に共通するものではないでしょうか。死んでも個人の個性や意識は保たれ、どこかの世界に存在するという考え方とは対極をなすものです。江戸時代の思想が明治維新で終わらず、明治から昭和へと日本人に影響を及ぼしたことは、広く知られています。それにしても、生き方に留まらず、死に対する考え方へも影響を与えていたとは、言われてみれば当然ですが、なるほどと考えさせられました。 こうした死のイメージを講演後の3年生の授業で学生達に聞いてみました。学生達はほとんどが、霊魂や魂はあるかもしれないが、死後は何かと一体化し、個性は無くなるといった考えでした。私には、現代の中国の人々の中に儒教や朱子学の影響がどれ程あるのか分かりません。しかし、中国でも明確な死や死後のイメージがなく、現代の日本人とあまり差異が無いことに興味深く思いました。ただ、聞いた中に回教やキリスト教の信者はおらず、また、まだ若い学生達ですから、あまり突き詰めて死について考えたことはないと思います。 てんやわんやの重慶市 前回の近況その12で、次期リーダー・レースとして、重慶市委書記の薄熙来(はくきらい)について書きました。実はその薄熙来の政治スキャンダルが2月に発生し、先日行われた全人代をピークとして、諸外国、特に、日本の新聞に大きく取り上げられたようです。薄熙来は重慶市の書記に就任すると「打黒唱紅」で名を上げ、昨年末には共産党左派勢力から熱烈な支持を受け、今年の秋期に次期政治局常務委員入りが確実視されていました。それが、2月2日に、重慶市副市長で公安局長だった王立軍の公安局長の職を解くとの発表がありました。王立軍は、薄熙来によって遼寧省から引き抜かれ重慶市の公安局長に抜擢された腹心の部下で、反暴力団キャンペーンで辣腕を振るった英雄でした。この発表には一瞬あれと思いましたが、もはや重慶市では暴力団対策は完了したのかとも思いました。それが2月6日に、重慶のすぐ近くの四川省成都にあるアメリカの総領事館に王立軍が駆け込み、亡命を求めるという事件が起こりました。折から、習近平副主席が訪米中で、その影響を恐れたアメリカ政府がこれを拒否、王立軍の身柄は翌日中央政府の公安に渡され、重慶市からは、王立軍が病気療養するとの発表がなされました。この事件は各国のメディアで盛んに報じられました。大筋は、薄熙来の暴走を党中央が嫌い、査問にかけようという動きが出たため、薄熙来が王立軍に責任を押し付け、トカゲの尻尾切りを行おうとしたので、王立軍が逃亡を図ったのではないかといったものでした。 3月上旬から中旬にかけて、北京で第11期全国人民代表大会、全国政治協商会議、いわゆる両会が開かれ、薄熙来も重慶市代表として出席しました。両会での薄熙来の記者会見には各国の記者が殺到したようですが、そこで、薄熙来は胡錦濤路線に沿って重慶市の発展に力を注ぐと、すっかり党中央への恭順を示すコメントが発表されました。両会の期間中はそれ以上の進展はありませんでしたが、全人代閉会時行われた温家宝首相の恒例の記者会見でははっきりと「現任の重慶市委と政府は反省し、王立軍事件から真剣に教訓を学び取るべきだ。」と重慶市への明確な批判がなされました。そして、両会終了後、党中央から薄熙来の重慶市委書記の解任が発表され、後任に張徳江副首相が任命されました。現在、薄熙来とその夫人で弁護士の谷開来は、党中央規律委員会から規律違反や収賄などの疑いで取り調べを受けていると報じられています。 昨年の年末には飛ぶ鳥を落とす勢いだった薄熙来はあっと言う間に転落してしまいました。一部のメディアでは、この一連の事件で、年末の党大会へ向けて胡錦濤主席の権力が強化されたと報じられています。現在、重慶市では市内にあった「唱紅」の看板などが全て取り外され、これまでのキャンペーンの面影は何もないそうです。中国の政局は権力の行使がダイナミックで、傍で見ている限りでは、政治ドラマを見ているような面白さがあります。この2,3月とインターネットで様々な報道に触れ、すっかり楽しませてもらいました。
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