楡中の正月 年が明けました。今週から大学は期末試験ですが、この3が日は休校で静かです。近隣の学生で家へ帰る者もいるようですが、大部分は図書館や教室へ出かけ、試験勉強で忙しそうです。12月に入って、楡中は冷え込んできました。このところ、平均気温は−10〜0℃ほどで、時々冷え込むと−13℃あたりまで寒くなります。陽のあたる日中は気温ほど寒さを感じませんが、それでも、これまで夕食後にキャンパスを散歩していたのですが、さすがに食事を済ませるとまっすぐ宿舎へ帰るようになりました。このところ蘭州は晴れた日が続きます。12月の5日に雪が降り、5cmほど積もりましたが、それ以来、雨や雪がなく、ずっと晴れています。幸い、唇が切れたり、酷い霜焼けに悩まされることもありませんが、少し乾燥肌で身体がむず痒く感じます。ただ、晴天といっても、日本のようにどこまでも澄わたるといった透明感はなく、遠方の黄土の山々は霞んでいます。冬の蘭州は空気の汚いことで有名ですが、郊外の楡中でもその影響が少しはあるのでしょうか。 ぶらり銀川へ 年末に、授業が一段落し、あとは期末試験を待つだけになりましたので、思い立って、寧夏回族自治区の銀川へ出かけてみることにしました。朝一番のバスで楡中を発って、蘭州の東バスターミナルへ行き、122元で銀川行きの切符を買いました。蘭州から銀川まで480km、5,6時間の行程となります。バスは高速を北上し、途中から東へ向かい、甘粛省の白銀市を抜けて寧夏へ入ります。寧夏の中衛市中寧県を過ぎた頃から、これまで黄土高原の山塊の間を縫うように走ってきたバスは広い平原の道を北へ突き進みます。ちょうどこのルートは黄河に沿って造られているようで、蘭州を通った黄河は中衛市まで東へ進み、この中寧県の辺りから北上し、銀川市の東を抜け、内モンゴルへと流れます。周りの平原は田圃も広がっているのですが、収穫が終わったこの時期には何も植えられておらず、褐色の大地が延々と広がります。バスは15時半に旧市街の外れにある銀川バスターミナルへ到着しました。 銀川は寧夏の省都で、人口199万人、そのうち回族が40万人で20%ほどだそうです。銀川は南北に延びた賀蘭山脈の東の麓に広がった街で、海抜は1100m、古くは西夏王国の首都、興慶府として栄えました。街はその興慶府の跡に出来た旧市街と、新たに開発された新市街が東西に長く延びて、黄河の谷間にできた細長い蘭州市とは異なり、広々としていました。その日は、ホテルにチェックインした後、旧市街の真ん中にある鼓楼や明代に出来たという玉皇閣を見て回り、夕食は銀川名物の羊料理を楽しみました。 翌日、銀川観光の目玉、西夏王陵へ出かけました。シーズンオフのためか、観光用のバスは走っておらず、タクシーを捕まえ、往復250元と交渉して、出かけました。西夏王国は11世紀から13世紀にかけて栄えたチベット系のタングート族の王国です。最盛期には、寧夏、甘粛、そして、内モンゴルの一部を版図としていました。井上靖『敦煌』に、西夏の女性や西夏文字、そして、西夏との戦いのために洞窟に隠された敦煌文書などが詳しく書かれ、映画化されているので有名です。西夏王陵は銀川市の西30kmの郊外にあり、9つの皇帝陵と70余りの陪葬墓があるそうですが、広い敷地に散在し、全貌はよく分かりませんでした。建国の英雄、李元昊(りげんこう)の3号陵が最も大きく、園内の中央にありました。もっとも、皇帝陵といっても大きな土塊があるだけですが、荒涼とした平原に横たわる土塊や土塀を見ると、かえって歴史の風雪を感じます。 西夏王陵の後は、また、市街へ戻り、寧夏博物館、西夏時代に縁起を持つ承天寺塔、また、南関清真大寺(イスラム寺院)を見て回りました。寧夏博物館は新市街と旧市街の間にある真新しい広壮な建物でした。近くには人民広場を中心に、市政府、図書館、科学博物館など大きな建物が並んでいます。展示の中心は西夏と回族関連の文物でした。回族は、唐、宋の時代にシルクロードを通じて西方から来たイスラム教徒がこの辺りの漢族と混ざり合い、さらに、元代に再び大量のイスラム教徒が流入し、それらが中国全土へ広がっていったようです。現在、中国全土に1000万人近くいるようですが、特定の民族というより、極論すれば、古くからイスラムの信仰を守って来た中国の人々と言った方が良さそうです。寧夏は省ではなく、回族自治区と称しており、人口630万人のうち、およそ、35%の220万人の回族がいるそうです。そのせいか、銀川市内でもあちこちに大きなイスラム寺院が目に付きます。 最終日はどこへも観光をせずに、直接バスターミナルへ出て、蘭州へ戻りました。寧夏は中国の省や自治区としては小さく、人口も多くありませんが、それでも銀川は省都として興隆しているようです。旧市街の外に、市政府や自治区政府の新しく大きな建物が造られ、高層ビルも目に付きます。今回はバスの行きと帰りに時間がとられ、観光で回れたのは正味1.5日でしたので、あまりゆっくりと銀川の街を楽しむことが出来ませんでした。そのうちまた来てみたいものです。 共産党リーダー・レース展望 今年の下半期に中国共産党第18回全国代表大会が開かれ、そこで新しい中国のリーダー達が選出されます。中国は共産党独裁国家なので、共産党のリーダーが国家リーダーとなりますが、そのリーダーになるには、共産党の中央委員かその候補になることが必須です。現在、中央委員は204名、委員候補は167名おり、その中から、25名の政治局委員が選ばれ、そして、そこからさらに9名の政治局常務委員が選ばれます。ですから、中国のトップ・リーダーはこの9名の政治局常務委員ということになります。現在の常務委員は 序列順に、胡錦濤、呉邦国、温家宝、賈慶林、李長春、習近平、李克強、賀国強、周永康といった人達です。中央委員は5年ごとに開かれる代表大会で選出され、任期は5年です。党総書記や総理等の役職は2期まで続けられ、また、最近では68歳以上が定年となり、選出されません。2007年の代表大会で選ばれた上記の9名のうち、この条件のため、総書記・主席の胡錦濤や国務院総理の温家宝など7名が退任となります。実に、国家リーダーの7割以上がいなくなることになります。ただ、両名の後継者は既に決まっており、常務委員序列6位の副主席習近平(しゅうきんぺい59歳)が総書記・主席へ、序列7位の副総理李克強(りこっきょう57歳)が総理に就任します。中国共産党にも派閥があり、前総書記の江沢民は上海閥、胡錦濤は団派、習近平は太子党と言われます。団派とは共産主義青年団の出身者を指し、李克強も団派に属します。また、太子党とは共産党指導者の2世、3世グループを言います。 現主席の胡錦濤としては引退後も自身の影響力を残すため、次期常務委員の中に、できるだけ団派メンバーを増やしたいと思い、また、次期主席の習近平は当然太子党のメンバーを増やそうと必死です。常務委員は順当には、その下の政治局委員から昇格することになります。現在の政治局委員では、引退にはならない候補者は9名ですので、その中から7名が常務委員へ昇格します。ただ、もしかすると、1,2名はその下の中央委員の中から、特進で常務委員へ昇格する候補者が出てくるかもしれません。 政治局委員は主にそれを支える4つの部門から選ばれるようです。1つは共産党の機関や党務のリーダー、2つは国家機関のリーダー(高級官僚)、3つは地方政治のリーダー(各省の書記)、4つは治安・軍部の代表者になります。現在、政治局委員の候補者や中央委員の候補者はそれぞれ昇格を目指して必死なことと思われます。中でも、政治局委員の中で、広東省委書記の汪洋(おうよう57歳)と重慶市委書記の薄熙来(はくきらい63歳)の対立がよく報道されます。汪洋は団派、薄熙来は太子党ですので、2人の対立はまるで胡錦濤と習近平の代理戦争の様相を呈しています。 薄熙来は2007年に重慶市委書記に就任すると、すぐ「打黒」という反暴力団キャンペーンを行い、何千人もの暴力団関係者を逮捕して成果を上げました。そして、大規模な低所得者用の公営住宅を建設、次に、農村戸籍者の都市戸籍への転換を推進しています。また、「唱紅」という共産党の革命歌を農村や都市で歌うキャンペーンを行っており、これらの施策は「重慶モデル」として全国的な注目を集めています。汪洋が前重慶市委書記だったことから2人の対立が目立つようになり、汪洋のケーキを大きく焼いてから分配するという主張に対して、薄熙来はケーキを分配してから大きく焼くというケーキ論争へ発展しています。始めは、ややラディカルな薄熙来が常務委員から嫌われていたようですが、最近では、習近平やその他の常務委員が重慶を訪問し、薄熙来を称賛したことから、盛り返しています。現時点では、汪洋も薄熙来もそろって常務委員へ昇格すると予想されています。 毛沢東やケ小平のカリスマ指導者の時代とは異なり、最近の中国では集団指導体制が定着してきたこともあり、誰が総書記に就任しても急激な政治方針の変更は無いようです。ともあれ、現在の政治局常務委員、委員の25名のうち14名の退任が決まっているという大変革ですので、今から、18回代表大会が注目されます。ところで、こうした中国の国家リーダーの選出プロセスを見ると、日本のそれに比べてとてもうらやましくなります。習近平や李克強が常務委員に選出されたのは2007年の17回代表大会でした。その時から、2人は総書記と総理になることを前提に様々な職務でトレーニングを重ねてきました。外交でも、昨年あたりから次期総書記、次期総理として諸外国を訪問し、経験を積んでいます。私は、現代のような複雑な国家を運営することは、才能以前に技能だと思っています。国家リーダーの技能を習得するには訓練や経験が重要でしょう。現在のように目まぐるしく変わる日本の首相にこうした技能を身に付ける余裕があるのでしょうか。何ともうらやましい限りです。
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