蘭州近況その10 (2011年10月)


楡中の紅葉

 前回、今年の蘭州は寒いと書きましたが、そのせいか、紅葉も早く始まりました。今月の初旬にはもう楡中キャンパスの木々はすっかり色づき、中には葉を落とし始めるものもありました。昨年よりは12週間早いのではないでしょうか。楡中の樹木は、杏やリンゴの果樹、マメ科の槐、ポプラなどが多いせいか、日本のように燃えるような赤い紅葉は見られず、葉を黄色く染めるものが多いようです。それでも、キャンパスの将軍院という庭園には楓が何本かあり、見に行くと、ややオレンジがかった赤い紅葉が見られました。

 国慶節の連休が終わった先週、蘭州の紅葉の名所、興隆山へ学生と出かけました。興隆山は楡中町にあり、キャンパスからバスで4050分の距離にありますが、乾燥地帯の蘭州には珍しく、全山樹木で覆われています。休日のせいか、蘭州からの紅葉見物のお客でにぎわっていました。山の半分は植林された杉の林ですが、それ以外は落葉樹が生い茂り、見事に紅葉していました。ただ、ここでも燃える赤は少なく、黄色く染まる木々が多いようです。興隆山は一つの山というより、山塊を形成し、観光客が行くところは寺院が多い、東山、西山ですが、その奥に3000mを超える山々がそびえています。私達は東山に登りましたが、登る途中でその奥の高山を眺めると、山頂はすっかり雪で覆われていました。雪の量は昨年よりはるかに多く、今年の寒さが実感できました。東山の山頂は平坦な平原で、周りに樹木が多いため眺望はききませんが、唐松に似た樹木の林があり、見事に黄色く萌えていました。ただ、木々の多くが落葉を始めており、いささか盛りを過ぎたようでした。1週間早ければもっと色鮮やかな紅葉が見えたことでしょう。

 

西寧、青海湖を巡る

 10月の最初の1週間は国慶節の連休でした。現在の中国では春節に続く大型連休になります。今年は蘭州のすぐ西にある青海省の西寧へ行くことにしました。連休の初日は避けて、3日目に朝一番のバスで蘭州へ出て、鉄道の駅で西寧行きの切符を求めましたが、買えたのは昼過ぎの切符でした。連休なのでこんなものかと思いましたが、時間つぶしに近くの高速バスのターミナルへ行くと、30分おきに西寧へ行くバスが出ており、値段も56元と列車の切符とほとんどかわりませんでした。蘭州−西寧は250qほどで、快速列車で2時間半、高速バスで3時間半かかります。結局、昼過ぎの列車は出発が50分ほど遅れて、西寧へ着いたのは16時頃になりました。その上、現在、西寧駅は工事中で、列車は西寧西駅へ着きました。予約したホテルは西寧駅の近くでしたので、わざわざ路線バスで西寧駅の方へ戻らなければなりませんでした。ホテルでチエックインを済ませてから、まず、翌日の青海湖ツアーを申し込みました。ホテルで予約したせいか、料金は330元もしました。

 西寧は青海省の省都で人口は約200万人、2200mの高地にあります。もっとも、青海省の面積は72万平方qと日本の約2倍で、省の半分以上が40005000mの高地にあり、人口約518万といいますから、半数近くが西寧に住んでいることになります。民族構成は、漢族が一番多く、チベット族が22%、回族が16%程と続きます。地誌的には、西寧より西はチベット文化圏で、有名なチベットへ向かう青蔵鉄道は西寧が始発駅となります。

 翌日、朝7時に観光バスがホテルへ迎えに来ました。バスは、それから西寧のホテルを何件かまわり、お客を満杯にして、青海湖へ向かいました。途中、チベット寺院や復元した明代の古城をまわり、12時頃、標高3500mの日月山へ着きました。ここは唐代に文成公主が政略結婚でチベットへ輿入れした時、この峠で中国を振り返り、別れを惜しんだという故事で有名です。確かに、これまで狭いつづら折りの道が渓谷に沿って続いていましたが、この峠を越えると、なだらかに広がる高原の直線道路に変わりました。いかにもチベット高原に入ったという実感が湧きました。西寧から青海湖まで150km、バスはさらに23の観光地に寄って、14時頃青海湖の東端、二郎剣景区へ着きました。本当は、西端の鳥島まで行きたかったのですが、団体ツアーのため勝手がききませんでした。

 青海湖は琵琶湖の6倍の広さを持つ大きな塩水湖で、湖面の高さは約3200mと高地にあります。見渡した限りでは、周囲にあまり急峻な山は見られず、なだらかな草原が周りを取り囲みます。湖畔をバスで走ると、あちこちに放牧場があり、羊、ヤク、馬などが放牧されていました。青海省は牧畜業が盛んで、ヤクの飼育頭数は中国で1位、世界の3分の1を占めるそうです。湖の岸辺に立つと、さすがに水は透明で、遥かかなたに雪を被った山々が広がっているのが微かに見えます。今年5月にはツールド青海湖が行われ、湖畔を走る自転車をテレビで実況していましたが、機会があれば自転車で回ってみたいものです。帰りは青海湖を17時に発って、日月山の脇を通り、2時間半で西寧の市街へ戻りました。

 3日目は、西寧から35q離れた、チベット教の塔尓寺(タール寺)へ行きました。西寧市街の南外れから路線バスが出ており、3元で行けました。塔尓寺はチベット仏教最大の宗派であるゲルク派創始者ツォンカパの生誕地に建てられた、ゲルク派6大寺院の一つだそうです。狭い谷間に、大小さまざまな寺院があり、中心の寺院の瓦は金色に塗られ、燦然と輝いていました。チベット仏教というと、すぐ五体投地という身体を地面に投げだす祈り方を思いだしますが、各寺院の門前や回廊には祈祷場が設けられ、身体を投げ出す場所には布を巻いた板が敷かれていて、五体投地も現代化しているようです。チベット仏教の寺院は極彩色の壁画が豊富で、中でも観音様は日本のように中性では無く、豊かな胸を持ったふくよかな女性として描かれているのが印象的でした。午前中、塔尓寺を見学し、午後、西寧へ戻り、今度は高速バスで蘭州へ帰りました。今回、初めて青海省へ行ってみて、その西側はチベット文化圏だと改めて感じました。青海と西蔵(チベット)からとった青蔵という文字が、レストランの青蔵料理を始めとして西寧のいたるところで見られました。チベット自治区の村や町に入ると、漢字の他にチベット文字が併記されているのも印象に残りました。

 

仏教雑感

 話題は変わりますが、西寧へ行ったこともあり、最近仏教について想ったことを少し書いてみたいと思います。きっかけは渡辺照宏「仏教」という新書を読んだことにありました。仏教の発祥地はインドで、それが中国を経て日本に伝わりました。当然それは同じものだと思っていましたが、どうも違いがあるようです。インドのサンスクリット語で書かれた経典は、古くは、スリランカのパーリ語、チベット語、そして、中国語に翻訳されて、各国へ伝わりました。本家のインドは、イスラム教やヒンドゥー教の影響で、仏教は廃れてしまい、経典も無くなりました。しかし、近来の発掘調査で、時々、サンスクリット語の経典が発見されることがあるようです。それらの経典をチベット語や中国語の経典と比べてみると、チベット語の経典は比較的忠実に翻訳されていますが、中国語の経典は意訳が多いようです。高名な玄奘三蔵法師などもその一人で、意訳や、自分の判断による取捨選択が激しいようです。科学的翻訳などという概念が無い時代ですから、仕方が無いのかもしれませんが、インドで発祥した仏教の原点を見るという限りでは、中国仏教より、チベット仏教の方が近いようです。

 チベット仏教は、日本では昔ラマ教などと呼んでいましたが、ラマ教という呼び名が仏教とは縁がないように聞こえるので、最近では、チベット仏教と呼んでいるようです。ただ、この呼称もいかにもチベット人の仏教といった感じが伝わるので、あまり望ましくはないようですが。チベットの仏教は前述したようにインド仏教の原型を保っていましたが、さらに、13世紀に他宗教の迫害で追われたインド仏教の指導者がチベットへ亡命し、その法灯がチベットへ受け継がれたと言われます。

また、仏教は大きく、大乗、上座部(小乗)の別や、顕教、密教の別がありますが、チベットではこれらを体系的にまとめる努力がなされ、14世紀後半に出現した大仏教学者のツォンカパが集大成したそうです。細かい事は分かりませんが、チベット仏教の特徴はとても論理的なところにあるようです。

私達日本人は幼い頃から、仏、釈迦、仏陀などに親しんできましたが、どうも人間としての釈迦への知識が不足しているようです。釈迦は紀元前560年ごろ北インドに生まれ、29歳で出家し、35歳で解脱し、80歳で死ぬまで45年間布教活動を続けました。最初は、出家者を相手に解脱の方法を教えたようですが、やがて、一般大衆の救済へとその範囲を広げ、教団と言えるほどの大きな勢力を築いたようです。

所で、私はこれまで仏教は宗教というより、哲学だと思っていました。仏教の悟りとは、全ての現実を空と思うことで、そう悟ることで、現実世界の一切の苦悩から逃れることができると説くのが仏教だと思ってきました。それは、死後の世界や神仏を想うというより、高いレベルの精神状態へ到達することに励むという意味で、哲学だと思っていました。それが上述の本ではっきりしたのですが、仏教では輪廻という明確な世界観がありました。一般の大衆は輪廻の連鎖から逃れることができません。人間は死ぬと、また、生まれ変わります。生前の行いによって、生まれる身分が違うようですが、人間や動物として生まれるかぎり、苦悩から逃れることはできません。ただ、悟り、解脱することによって初めて輪廻の連鎖から逃れ、神の世界へ入れるようです。解脱は身を慎み正しい方法で修行することでも可能なようですが、神仏を信じ、神仏の加護を願うことでも解脱、あるいは、救われることが可能なようです。こう見るとやはり仏教も宗教でした。この輪廻という世界観は釈迦の発明ではなく、釈迦が生存した古代インドの世界観だったようですが、釈迦の死後、多くの仏教学者達がさらに精緻な輪廻の世界観を作り上げていきました。ただ、輪廻を超えた神の世界は即物的な世界ではないので、それを理解するのは難しそうです。