蘭州近況その3 (2010年11月)


地域暖房の謎

 1026日にスチームが通り、それ以来寒くなくなりました。実はその何日か前からスチームは通っていたのですが、点いたり消えたりで、慣らし運転なのかと思っていました。前日に雪が降り、寒さに震えていると、隣のマレーシアの英語教師が騒ぎ出して保守要員を呼び出し、点検させました。すると不具合が見つかり、やっと全室24時間スチームが通るようになりました。ぽかぽかというよりほんのり暖かい程度ですが、それでも建物が温まり、身体も慣れてくると、寒くなくなりました。このところ、幸いに暖かな日が続きます。蘭州の11月の平均気温は012℃といったところですが、楡中ではこれより23℃低いはずです。114日に初霜が下り、畑の水たまりは凍りついています。それでも、日中、日溜まりにいるとポカポカ汗ばむほどで、まだ身を切るような寒さにはなりません。

 キャンパスの北と南の外れに、大きな煙突と石炭を山と積んだ建物があります。ここのボイラーで蒸気をこしらえ各棟のスチームへ流すのでしょうが、私の居る外教棟からボイラー室まで何百メートルもの距離があります。蒸気の通る管を地中に埋めても、私の部屋へ来る頃には冷めてしまわないのでしょうか。外教棟の周りを調べてみましたが、蒸気を温め直す設備は見当たりませんでした。ボイラー室から出たスチーム管が、学生寮、教職員寮、教学棟と一つに繋がっているとすると、延々何キロにも及ぶことでしょう。スチーム暖房は昔からある古い技術です。驚くような高度な技術ではないはずですが、それでもどうして各棟へ均質に蒸気が通るのか不思議でなりません。キャンパスを散歩する都度、小型のボイラー室がないのか探していますが、未だに、それらしい施設が見当たりません。不思議です。

 

農村を走る

 大学を出ると東側に小さな商店街がありますが、学生からそこの自転車屋に貸し自転車があると聞いて、さっそく出かけました。18元、補償金200元でマウンテンバイクのようなタイヤの太い自転車が借りられました。最近はこれで付近の農村や畑の中を走り回っています。楡中県(ゆちゅう)は8つの鎮、15の郷、268の村からなり、面積約3300ku、人口42万人とあります。因みに神奈川県の面積は約2400kuですから、それよりはるかに広いことになります。自転車で走ってみると、幹線道路以外にも、村から村へ舗装された農道が続き快適に走れました。ちょうど農村では野菜やトウモロコシの収穫が終わり、再度畑を耕し、次の作物を植え始めている時期でした。ところどころに緑の新芽が見えますが、これから冬に向かうこの時期に育つのでしょうか。

 この辺りの農家は100坪か200坪の土地にロの字型に家を建てています。外側をレンガの壁で囲み、通りに面した所に門があるだけで、窓はありません。門から中をのぞいてみると、中庭を囲むように部屋があり、各部屋の窓やドアは全て中庭に向けられています。特に南側は広いガラス窓を配したサンルームのような明るい部屋が目立ちます。中庭は植木や草花が植えられた庭園風のものから、作業場のように広くて平らなものまで様々でした。建物の外にレンガで囲った小屋を作り、豚を飼っている農家もありました。畑には牛や馬を時々見かけましたが、日本のように耕運機で耕す様子はありません。また、畦道や亀裂の入った台地で、番人に連れられた10匹か20匹程度の羊の群れをよく見かけます。この辺りは羊文化圏なのでしょう。ところで、畑や村の中で老人達や乳飲み子を抱えた母親達によく会いますが、あまり、2030代の壮健な農夫を見かけません。少し古い統計に楡中県の一人当たりの農民収入は1800元とありましたので、中国の平均から見ても豊かではありません。きっと出稼ぎに行っているのでしょう。

 畑の緑を除いては、辺りは黄土色の丘陵と黄土色の平原が続きます。気候は温帯性半乾燥気候で、年間平均気温が6.6℃、降水量は350mm、東京のおよそ5分の1となります。ただ、村ごとに灌漑施設が設けられ、太くはありませんが用水路が村々を巡っていました。こうした黄土の世界を自転車で走るのも得難い経験です。

 

萃英山、興隆山へ登る

 キャンパスの背後には壁のように丘陵が立ちはだかります。その中ほどが少し小高くなっていて、その辺りを萃英山と呼んでいます。学生寮に近いせいか、朝な夕なに萃英山を仰ぎ、まるでキャンパスのシンボルです。性分のせいか高いところを見るとすぐ登りたくなります。萃英山へは登山道が二つあり、一つは寮の後ろからまっすぐ登る石段の道、もう一つは北側から大きく迂回した車道が山頂へ延びています。高さはキャンパスから200300mですので、30分もあれば登れます。キャンパスの近くの斜面には大学から灌漑用のパイプが伸びて灌木が見られますが、少し離れた斜面では細々と生えた草の間から黄土色の地肌がのぞいています。頂上は意外に平らな草原でした。山頂の、ちょうどキャンパスの後ろ辺りに大学の乾燥気候観測所がありますが、それ以外は南北に延々と草原が延びて、どこまでも歩けそうです。910月頃には紫や黄色の小さな花がたくさん咲いていて、きれいでした。手軽に登れるので、これまで5回登りました。頂上からの景色は、東側にキャンパスと楡中の農村が広がり、そのさらに先は同じような丘陵が連なります。西側には、萃英山と同じような山並みが南北に平行して何層も続いています。気分転換に格好の場所でしたが、残念なことに冬場は危険なためと、植物保護のため、現在では山道が閉鎖されてしまいました。

 萃英山とは別に、楡中には有名な山があります。興隆山と言い、四つ星の国家観光地に指定されています。興隆山は行政府のある楡中町からさらに10km南にあります。唐、宋の時代に仏教の聖地、修行地として栄え、山中には多くの廟堂が建てられました。2500mほどの東山、西山と、さらに南にある3600m級の馬衛山の山塊から成っています。少し前になりますが、10月の連休に出かけました。連休のせいか、蘭州からもたくさんの観光客が来て、随分にぎわっていました。最初の日に西山、何日か後に東山へ登りました。30元の入山料を払って、石段の道を登ると、峰々に仏堂や宗廟が建てられています。10月の始め頃でしたが、山頂付近ではもう紅葉がはじまっており、黄金色の唐松が見事でした。ところで不思議に思ったことは、興隆山は緑に覆われ、麓の沿道には日本でよく見られる杉の大木が鬱蒼と茂っていました。キャンパスから南へ楡中町まで10km、興隆山までは20kmほどの距離しかありませんが、キャンパスの周辺では黄土色の丘陵が連なるのに、興隆山は青々としています。その理由を学生達に聞きましたが、誰も教えてくれませんでした。ガイドブックの説明を参考にすると、興隆山、馬衛山の山塊は黄土高原で由一つの3600m峰だそうです。そのため、多少気候が違うことと、土壌の違い、また、古くからの聖地で人による乱伐が避けられたためではないかと思われます。

 興隆山の中腹に大仏殿という廟堂がありました。さほど大きな廟堂ではありませんが、中の本尊はチンギス・カンの金銅像でした。この大仏殿は民国時代の後半、10年ほどチンギス・カンの霊棺が安置されていたそうです。その真偽は分かりませんが、楡中はモンゴル帝国と寧夏省の西夏王国の古戦場です。13世紀前半、南下したモンゴル軍と西夏軍が何回か楡中で大規模な戦闘を行ない、その結果が西夏王国の滅亡へとつながります。チンギス・カンは興隆山の麓に2度ほど布陣し、また、戦闘の合間には将兵を休ませたといいます。さらに、その後の西夏掃討戦の最中、楡中かどうかははっきりしませんが、この近辺でチンギス・カンが落馬し、それがもとで亡くなります。こうしたことからチンギス・カンと興隆山の因縁ができたのでしょう。

 今、中国はアジア大会に夢中です。CCTVは連日競技の結果を放送しています。日本は相変わらず尖閣諸島の映像流失で騒がしいようですが、こちらではほとんど放送されません。上海で万博が終わったと思ったら、今度は広州でアジア大会を盛り上げています。規模と言い、予算と言いオリンピック並みの力の入れようです。あまりパッとした話題が少ない最近の日本ですが、たまにはこうした華やかなエベントもよいのではないでしょうか。