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世に大言壮語の数々あれど、本書の作者ほど大上段に構えた物言いは、そうそうお目にかかれ
たものではない。 「私は、生物の脳が、なぜ、なんのために心を作ったのか、そして、心はどんなふうに運営され ているのか、という心の原理を理解したつもりだ」 いや、つもりだ、って言われても……。 マンガアニメの紋切り型的マッド・サイエンティストならいざしらず、ケンブリッジで講座 を持った経験もある某KO大学の助教授様が、筑摩書房というとんでも要素皆無の版元が 出した書物から、こんなにもぶっ飛んだ発言が飛び出すとは、正直驚きという他ない。 ちなみに作者の前野は、助教授といっても心理学や脳医学の専門家ではない。触覚センサや 機械による人体シュミレーションといった研究対象から俗っぽく表現するならロボット博士 ということになるだろう。おそらく上記の物言いは、大脳生理学者や精神医といった《脳と心 のスペシャリスト》とは異なった分野に身をおいているからこそ出てきたものであることは間 違いない。 そもそもどうして「心は理解不可能なほど複雑だ」という認識がまかりとおっているのだろ うか? 作者の前野はその理由を、現時点ではおよそ説明のつかない3っつの問題に整理する。 (1)《私》の問題=どうして人は、自分自身を外の世界とは独立したユニークな《私》とし て認識することができるのか? (2)バインディング問題=どうして《私》は数十億の神経細胞を統括することができるのか? (3)クオリアの問題=どうして《私》は、主観的体験をいきいきとした質感をもって感じ ることができるのか? と、こんなふうに改めて並べられると、極めてベタな感想とはいえ「ヒトの心って神秘にあ ふれているなぁ」などと柄にもなく感心してしまうわけだが、作者の前野は、そもそもそんな ことを問題にするから物事が難しくなるのだ、とバッサリ切り捨ててしまう。 結論に至るまでの論証こそが本書の読みどころなので、間をサクっとすっ飛ばしてその言い 分をまとめてしまえば、私が《私》を意識するのも、《私》が能動的に行動しているように感 じるのも、なにもかもが錯覚に過ぎないと前野は断言するのだ。 脳の中では何億というニューロンが、それぞれ勝手にしじゅう発火しており、その中で最も 大きな刺激が《感情》として認識される。自立した《私》などという存在は脳内のどこにも存 在せず、私の行動は《私》が能動的に選択したものだという《意識》さえもが、そのように思 い込ませる神経回路の反応結果に過ぎない。前野の提言する《受動意識仮説》を極めて乱暴に 要約してしまえば、そういう結論になる。 神秘体験や超常現象の類も、人間の意識さえもが錯角だとすればなんの不思議もないこと。ク オリアの問題だって記憶に強弱をつけて、重要なエピソードを検索しやすくするための機能 だとすれば、簡単に説明がつくというわけだ。 大好きな異性の姿を脳裏に浮かべて悶々とする切なさも、ギリギリ状況に追い込まれて悩み ぬいた決断も、しょせんは《私がそんな風に感じた》《私がそんな風に選んだ》と思い込んで いるだけ。《世界にひとつだけの大切な私》なんてどこにもいなくて、ヒトという生物は、誰 もが持ってる脳ミソのランダムな活動の結果にしたがってリモコンの如く動かされているだけ。 前野が語る「心の原理」は、かくの如くシニカル極まりないものであるが、かといって本書 が個々人の人間性を頭から無視した冷たい書物なのか、と言われると一概にそうは言えないあ たりがなんとも面白い。 たとえばクオリアの問題の例をあげるときに、恋人と一緒に夕日を眺めている時の満たされ た気分を例にあげたり、このまま自分の研究が進めば数十年後には心を持ったロボットが造ら れるはずだ、と己の専攻分野で大胆な夢を語ったりするあたり、ご本人は冷徹どころか、かな りのロマンチストと見受けられる。 特別な《私》なんて錯覚に過ぎないことを悟れば、かえって死を恐れず人生に希望を持つこ とも出来るはずだ、と大真面目に説いた舌の根も乾かぬうちに、希望を持つのも錯覚なんだけ どな、と減らず口を叩かずにいられないあたりなど、冷徹なサイエンティストと夢見がちなガ キんちょが、作者前野の脳内でくりひろげる葛藤の深さがうかがえ、微苦笑を禁じえない。 けれどもなによりも私が驚いたのは、本来であればショッキング極まりないはずの《脳が生 み出した錯覚としての私》という本書の結論を、自分自身がしごく当然のものとして受け入れ ているという事実にこそあった。 考えてみれば《本当は機械に食い物にされている黒コートのスーパーマン》などといった内 容の映画が世界中で大ヒットしてしまうのが今の世の中である。 《不景気》なんて誰も見たこ とないのに確実に収入は脅かされていたり。ひとたびテレビをつければ、不幸なんて 存在しないが如く誰もが浮かれはしゃいでいたり。 《私》の属する世界が限りなく虚構をベー スに組み立ててられていることなど、最早誰の目にも明らかなのだ。いまさらこのうえ「お前 の人生は脳みそに操られているに過ぎない」といわれたところで、なにを失うものがあろうか。 私は、たとえそれが虚構に過ぎないとしても、美少女フィギュアに萌えているクオリアとか、 浪花節映画に泣きぬれるクオリアを、リアルに感じ続ける道を選ぶだろう。 (なんていう文章も、オレの脳みそがそういう風に感じたと錯覚させた結果なわけで、これを 読んでいるあなたが「駄文ね」と眉をひそめているのも脳みそがそういう風に錯覚させた結果 なわけで……以下略)(05/03/16) |